発達障害やインクルーシブデザインの記事を読み、「本当の多様性とは何か」を探究することに決めた

小学校時代の私の毎年の目標は「クラス全員と友達になること」だった。毎日の日記で先生に「今日は、〇〇ちゃんと話せた!」「〇〇くんに挨拶できたから明日は、お昼休みドッチボールに誘う!」と書いていた。当時の私にとって、そこに「障害」という壁はなかった。何の疑いもなく「同じクラスの子」として考え、どうしたら友達になれるか真剣に考えていた。

「映画 夢見る小学校」を視聴して「障害は画一的な教育・社会が創り出したもの」と言われたときに、急にそんなことを思い出した。
映画を観た後、この言葉がとても印象的で、たまたま見つけた「発達障害」や「インクルーシブデザイン」の記事を読んでみた。

そして、「本当の多様性とは何か」という新しい問いを探究しよう!と決めた。

2つの記事で共通していた最初の問いは、「そもそも社会における障害とはなにか」だった。この問いの意図は「障害、とは画一的な教育や社会から見た括りだ」ということを伝えるためだ。

小学生のころは、当たり前のように同じ仲間として、障害を持つ子とも友達になるために関わっていた。そして、どうしてクラスをわけるのか?授業が進めにくいって理由になるのか?なんて幼心に思ってた。「だって一緒に合唱できるし、給食だって残さず食べてるじゃん。」と不思議で仕方なかった。けれど、その気持ちも気づいたら忘れていた。分離があることが当たり前になっていたし、「物事をスムーズに進めるため」という何とも寂しい理由で納得できていた。

そして、記事の中ではそのような分離の対象が障害を持つ人だけでなく、外国人の子どもや貧困家庭の子も発達障害と疑われることが少なくないという。理由は簡単。マイノリティだからだ。

ここについては、他の記事を読んで、もう少し多角的に見てから言及したいと思う。しかし、少なからずこのような実態があるのなら、多様性を受容する場や社会を日本でつくることはほぼ不可能ではないか…!と大きなショックを受けた。

そんなショックを受けたからこそ、そして、インクルーシブデザインについては、まだまだ知っていることが少ないからこそ。私は、「本当の多様性が何か」という問いを探究する。

そして、EdoNewSchoolでも、記事でも述べられていた「障害名ではなく、その子が何でこまっているのか。それをよく観察して、その子が過ごしやすい環境をどうやったら工夫できるか」を一緒に考えてそれをデザインしていきたい。

(文:手嶋穂)

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