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幼少期の年齢別教育法と男女差別 - 【識字率世界一:その11】


幼少期の教育のルーツ、『小学』

江戸時代の子育て論は『小学』『烈女伝』『礼記』『孝経』などの影響を強く受けています。こうした経典については以前の記事で軽く触れました。

『小学』とは、今から約800年前に朱子(しゅし)と劉子澄(りゅうしちょう)という人が、四書五経をはじめとする古い書物の中から大切な教えを選出したものと言われており、『烈女伝』『礼記』『孝経』の記述は基本的に『小学』からの引用だったので、日本の子育て論にもっとも影響を及ぼしたのは『小学』であったと考えられています。

『小学』が日本の子育て論に大きな影響を与えた背景には、平易な仮名書きの翻訳書や解説書、また、『小学』を踏まえた女訓書類が多数出版されたことが要因であったと言われています。

このうちもっとも普及したものは1659年に刊行された『やまと小学』とその翌年に刊行された『大和小学』と呼ばれる書物でした。

小学

一般に『小学』が語られる時、セットで『大学』も言及されますが、根本原理においては『大学』も『小学』も一つとされる見方が強いです。『人間の学』には自己を修める学と人を治める学の二つがあり、前者が「小学」、後者が「大学」として、「『小学』は自分自身の卑近な、いかに自己を修めるかという道徳教育の学問である。これがわかれば『大学』も小学であり、『小学』も大学であって同じ」と言われていました。


『小学』の年代別教育法

『小学』によれば、例えば男女9歳までの教育法は次の通りでした。

・側に着く妾・侍女の人柄を選ぶ。また、人柄の良い者を守役に選ぶ。第一に温和で、慈しみ深く、素直で、慎みがあって、言葉数の少ない者が良い。

・箸を使うようになったら、右手を使うことを教える。言葉を話すようになったら、男子はしっかりと返事をし、女子は静かに返事をするように教える。また、男子の帯は革製、女子の帯は織物が良い。

・6歳で、方角や数字を教える。
・7歳で、男女の別を教え、同じ座席に座らせず、食器も区別する。
・8歳で、少しずつ礼儀を教える。門戸の出入り、座席への着席、飲食時に、目上の人よりも遅らせる。また、人に対する敬意や謙譲の礼を教える。
・9歳で、日の数え方を教える。


庶民から幅広く支持された貝原益軒の随年教法

江戸時代に庶民から最も尊敬された儒学者の一人が貝原益軒(かいばらえきけん)と呼ばれる人でした。

小学2

益軒の著作は老若男女を問わず日本人のあらゆる階層から幅広く支持され、日本人の思想に多大な影響を与えたと言われています。

特に益軒が晩年に著わした仮名書きの教訓書の数々(俗に「益軒十訓」と呼ばれる)は、女性たちにも相当読まれたと言われています。

その中でも日本最初の体系的教育論とされる『和俗童子訓』は、子を持つ親だけでなく未婚女性にも読まれ、子どもの読み書き書としても活用されていました。

益軒は同書で「随年教法(年に随って教ゆる法)」という年代別教育論を説きましたが、例えば女子の読み書きは、

7歳より和字(かな)と男文字(漢字)を習わせよ。・・・最初は名数等の単語や短句を数多く読み覚えさせた後、『孝経』首章、『論語』学而編、曹大家の『女誡』などを読ませ、孝・順・貞・潔の道を教えよ。

と言った具合でした。


『和俗童子訓』の随年教法

6歳:数字と方角を教える。生まれつきの利純を考慮して仮名を読ませ、書き習わせる。五十音の平仮名を縦横に読ませ、書き習わせる。世間一般の往来もので仮名文の手本を習わせる。目上を敬うことを教え、尊卑・長幼の区別をわきまえさせ、言葉づかいを教える。

7歳:男女を同じ席に座らせず、食事もともにさせない。徐々に礼法を教える。仮名の読み書きを習わせる。7歳以前は、早く寝て遅く起き、食事の時間も決めず子どもの心に任せる。真書・草書の文字を書き習わせる。はじめから書風の正しい能書きを学ばせる。最初は大字を書き習わせる。・・文句が短くて読みやすく、覚えやすいものを読ませ、暗記させる。はじめは早朝に書を読ませ、食後は読ませない。半年たったら食後にも読ませる。

8歳:8歳は古人が小学に入った年である。初めて子どもに相応の礼儀を教え、無礼を戒める。この頃から立ち居振る舞いの礼や、目上の前に出て仕えることや退き方、目上や客に対して物を言い、返事をする仕方、食膳を目上の前にすえたり、片付け退く方法、また、杯を出し、銚子を取って酒を進めたり、肴を出したりする方法、茶を進める礼も習わせる。・・・門戸の出入りや座席で飲食する場合に必ず年長者に遅れるようにさせる。子どもの心任せにせず、わがままを堅く禁じる。才能があれば、8歳より14歳までの7年間で『小学』「四書」「五経」を全て読み終わる。これを熟読すると学問の基礎ができる。

10歳:古代中国では、男子は10歳になると外に出し、昼夜師につけ学問所において、常に父母の家には置かなかった。古人がこの方法を用いたのには深い意味がある。常に父母のそばにいると甘えが出てわがままとなり、教えが行われない。また、孝弟の道を父兄が教えるのは「わが身によく仕えよ」という事になるので、できれば師から教えて行わせた方が良い。・・・10歳以前から早く教え戒めよ。性が悪くても、よく教え習わせれば必ず良くなる。
10歳から師につけて従わせる。五常の理や五倫の道を大まかに教え、聖賢の書を読ませて学問をさせる。書のうち義理のわかりやすく、諭しやすい大切な箇所を説き聞かせる。この後、徐々に『小学』「四書」「五経」を読ませる。その合間に文武の芸を習わせる。世間では11歳頃に手習などを教えるが遅すぎる。


教育における男女差別

これらの随年教法は『小学』の上に新たに知識を積み上げる形で形成されています。例えば『小学』には、10歳になったら外の師について読み・書き・算を習うとありますが、あくまでも男子のみの話でした。

益軒は「読み書きや算数を知ることは、特に貴賎・四民ともに習わせよ」、また「女子も物を正しく書き、算数を習うが良い。読み書きや算数を知らないと、家内のことを記したり、家計を上手に治めることができない」と述べ、貴賎・四民・男女の別なく算数教育の必要性を強調しており、この時代に最も先進的な意見だったと目されています。

当時算数に対する蔑視は強く、特に武家で著しかったと言われています。

ある調査では、

・ある老女は寺子の頃、珠算を習いたいと思って父母にお願いしたが、「女子にはそんな必要ない。むしろ百人一首を習え」と言って許されなかった。しかし、彼女はのちに商家に嫁ぎ、珠算が必要となったので大いに不自由を覚えた。

・「女子が算盤を弾けが夫を弾き出す」といい、算勘を知らないのが良い育ちと考え、これを嫌う傾向があった。特に良家では穴銭を数えることを恥じ、物を買うにもただ銭を並べて商人が数え取るのに任せ、文房具を買う際も付き添いに支払わせた。

・明治初年に寺子屋が小学校となり、女師匠が算術を教えたところ、「女師匠が女児に算術を教える」と驚き、すぐに算術を教えない寺子屋に転校させた親さえいた。

と言った逸話も残っていました。


まとめ

今回は特に江戸時代の教育方法の中でも年齢にフォーカスして調べてみました。

当時からある程度体系化された年齢別の教育方法はあったようですが、やはりこの当時の教育は儒教的な思想の上に成り立っていたこと、

また、この時代の人々が一から教育法を確立したのではなく、中国の経典をベースに自分たちの知識を積み上げる形で進化させていったことが見て取れました。

やはり考え方の大元のフレームワークがあることで知識を積み上げやすいですし、このフレームワークが多くの人々の頭の中に共通の基礎知識としてインストールされていたので建設的な議論ができていたのだと思われます。

こういった面でやはり思想的なフレームワークは重要だなと再確認しました。

また、こうした教育法の素晴らしさがある一方、男女差別がすごいなという率直な印象を抱きました。

当時の人々からすればそれが当たり前の社会・文化の中で育っているので致し方ない面はあると思いますが、この辺りの『その当時の社会のルールでは重要だったけども、前提条件が変わればなんの価値もないもの』はピックアップせず、どの時代にも普遍的に重要とされる要素だけピックアップしていきたいなと思わせてくれる内容でした。

今日はこの辺で。

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