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「共感」する前に「理解」していきたい

今はなんでもかんでも「共感」の時代のようです。

こんにちは。編集とデザイナー夫婦の(デザイナー)のほうです。

私はマーケティングには詳しくないですが、最近では人がモノを買うには、ブランドが打ち出す理念や社会・環境へのメッセージに共感したり、すでに商品を使っている人が発信するいわゆるクチコミに共感したり。モノの売り買いの中で、消費者側の「共感」というものの力がかなり働いているそうです。

よくよく考えてみると確かに、最近の買い物って八百屋で並べられている野菜を選ぶだけじゃないですよね……。
そもそもモノがあふれている時代です。「必要だから買う」こと以上に

「誰それがいいと言っていたから買う」

「いっぱいある(ほとんど差のない)商品の中で、ここのポイントに共感するから買う」

「この企業は環境に良さそうな取り組みをしているから、ここの商品を買う」

……モノを買うだけでも、ひとひねり「考える」作業を加えないと、買えなくなっていることに気づきます。

「対象」がいる(ある)場合にしか使えない「共感」という言葉

マーケティングの話をしたいわけではありません。
冒頭の「共感」という言葉に話を戻します。

「共」という字が入っていることからも、「共感」は、ひとりではできない行為です。対象となる人やモノ、考えなどがあってはじめて使える言葉ですね。

(誰かと)共に、感じる

(皆と)同じ思いを、共有する

といった感じでしょうか。
辞書で調べると、以下のように出てきます。

きょう‐かん【共感】
[名](スル)他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。「共感を覚える」「共感を呼ぶ」「彼の主張に共感する」
(デジタル大辞泉 - Weblio 辞書・百科事典)

一見、耳触りのいい、素敵な言葉だと思います。
実際に私も何かに共感したり(ドラマや映画で泣いたり)、クチコミを見てからモノを買ったりします(大きな失敗をしたくないので)。

しかし、「必ず他人や対象物が存在しないと成立しない」というこの言葉の性質が、少し窮屈に思えるときがあります。

共感しすぎると、疲れる

私が「共感」への窮屈さを感じるのは、とくに昨今盛り上がっている「SDGs」や「多様性」、「性的マイノリティ」などのワードを考えるときです。

これらについてここで多くの説明は省きますが、どれにおいても、いわゆる「弱者や少数派への共感」を強いられている気がしていて、場合によっては逆効果な気がしてしまうのです。

そういう人たちやそういう状況、性質をまったく知らない人に啓蒙するには、もちろん必要な活動であり、言葉だとは思います。

でもそんな活動や言葉がもてはやされなくても、本来「弱者」や「少数派」は、ずっと「いる」いっぱい、「いる」。カミングアウトしてないだけで、あの友達が、知っているあの芸能人が、もしかしたら自分の身内が………「弱者」や「少数派」のカテゴリーや捉え方が変われば、自分だっていつでもそっちの「当事者」になり得る

そんな可能性まで考えて、そのすべてに「共感」しすぎると、疲れます。
心がいくつあっても足りない思いです。

そして何よりも、誰かの悲しみや理解されない気持ちに安易に「共感」して寄り添うのは、本質的には「同じ土壌に立たない」と宣言するようなものなのでは、と思えてならないのです。

「共感」する前に、「理解」したい

じゃあ「共感しないで」否定をするのか。

そう捉えられそうですが、そうではなく私が心がけたいのは「理解」することです。

「理解」という言葉は、「共感」と同じく対象物やモノ・コトに対して使う言葉ですが、自分自身にも使えます。そしてこの表現がいいな、と思う理由は、「理解」という言葉にはまだ「心」をのっけていない気がするからです。

「理解」という言葉も調べてみました。

り‐かい【理解】
[名](スル)
1 物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。「理解が早い」
2 他人の気持ちや立場を察すること。「彼の苦境を理解する」
(デジタル大辞泉 - Weblio 辞書・百科事典)

いかがでしょうか?

「共感」よりも、一歩引いて俯瞰しているような、そんな言葉に思えないでしょうか?

自分の対人関係も、「SDGs」も「多様性」も「性的マイノリティ」も、私は「共感」ではなくまず「理解」をしていきたいと考えています。

その人の気持ちなんて想像しただけで100%感じとることはできないし、自分の気持ちだってそう簡単に人に伝わる気がしないのに、「共感」は早すぎないか? 簡単にわかったぶりっ子し過ぎていないか?

そのためのワンクッション、心をのっける前の「理解」が必要だと思うのです。

距離があるから、共存できる(これが多様性?)

共感する前の理解があることで、問題から少し距離ができます
この距離がある状態こそが、「多様性を認めた」状態なのかな、とも思っています。

例えば黒人差別について考えてみたとき。
教科書で習う黒人奴隷の話やアメリカの人種差別の話……

これらに「かわいそう」「同じ人間なのにあってはならない」という倫理的な「共感」を促すような露出を見るとき、

表現が早急すぎる

と思うことがあります。

もちろん最終地点は「共感」であるべきですが、恥ずかしながら私は大人になってから黒人を近くで見たとき、包み隠さず吐露するならば……ギョッとしてしまったのです。

自分とはあまりに違う外見や、大きさの人(その人は一般的な日本人よりは背の高い男性でした)と対峙すると、無意識に、あるいは生理的に、「怖い」という感情に近いものを感じてしまったのが私の事実でした(誤解のないよう丁寧に言葉を選んでいるつもりですが、もし不快になる方がいらっしゃったら申し訳ないです)。

こういう経験があったので、そういう自分の「気持ち」の部分を隠していきなり「共感」を強いられてもまったく意味がないのでは、と考えるようになったのです。

……さて失礼ながらも恐怖に似たようなものを感じた私ですが、それは一瞬のことでした。その彼はとても気さくな雰囲気でしたし、私もそれ以上ずっと近くにいたわけでもありません。道で通り過ぎるときの、一瞬の出来事です。

ここからが、おそらく重要なんですね。

人が「怖い」と感じたり「嫌悪感」を抱くのは、圧倒的に「知らないから」。だから、もし自分が出会う人やモノ、コトと今後長く対峙するならば、まずは「理解」していくという行為が必要だと思います。

「共感」をするのは、そのあとでも遅くないと思っています。

このなんだかわからないけど自分と「違う」人が存在しているらしい、という状態を知っていくこと。

直接関わるわけではなくても、世界にそういう人が「いる、存在している」事実を知ること。

世界に目を向けなくても、もっと身近な人だって(「家族だから」「男だから」みたいな言葉も要注意ですね)、ひとり一人「違う」ということを認識すること。

そんな身近な「違う」人と直接関わる場合でも、どうしても自分と合わないと思えてしまうものだってあるかもしれない、と認めること。

認めた上で、触れない(距離をとる)ことだって、立派に「理解」であること。

もちろん、違いを認めた上でお互いが楽しく付き合っていけたら、それが一番嬉しいであろうこと。

そんな世の中のすべての人やモノ・コトから一歩引きつつ、でも関わりつつ、ちゃんと自分の中で考える距離がある状態こそが、私が考える多様性のある世界です。

なにか特別なアクションを起こして世界をそういう風に変えるのではなく、自分の中に見い出すのが多様性なんじゃないかな、などと思うのです。

「理解」をしていく過程では、衝突や議論もある

もちろん暴力や戦争に走るのはダメだと思いますが、衝突や議論を避けてまず「共感」をするのは不可能ではないでしょうか。

「共感」をして手を取り合い、皆が同じ方向を向いて均質なすばらしい世界をつくろう……そんなイメージのメディアの露出やマーケティングの理論は、いささか強引にも思えます。

そもそも皆が同じ方向を向くなんてことはあり得ないし、(戦争がいかにして起こったかを学んできたならば)あってはならないはずです。

こう思うから、おそらくわれわれ夫婦はよく朝まで議論するんでしょうねぇ……次の日仕事あるのにねぇ……w

目の前の人やモノ・コトに対して、あるいは自分自身に対してなにかを想い、無意識に発する言葉は、「共感」なのか「理解」なのか。

そこはしっかり分けて振り返ってみたいと思う、今日このごろです。


(画像を使わせていただいたHama-Houseさん、ありがとうございます!)

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