絶対解のはなし

人生に絶対は無い。

という言葉を聞いたことがあります。

聞いたこともありますが、実際にそうだとも思います。人と人とが向き合って成り立つ世の中のそこはかとない物事は全て、人と人との阿吽のなんとやら、によって成り立つものだと思います。

つまり、すべての実数解が答えだということです。絶対解は無い。形あるものはすべて壊れる。この一つを除いて。

それでも、人は不安になります。解を持たない自分が進もうとするその一歩に迷うんです。絶対なんてない。常日頃から思っているつもりの自分でさえ一歩に躊躇するんです。人間はそういうものです。単純でいて複雑で、難解に見えて容易な。そんな気がします。

初めて書いた note が少なくとも11人の方にご覧いただけているみたいで、なんだか嬉しいような恥ずかしいような、こそばゆい感じです。ね、容易でしょう。

只今、2:20AMを少しまわったところです。そんな時間に…という人もあるかもしれませんが、職業柄でしょうか、仕方がありません。毎晩1時ごろに帰宅して、5時頃に寝る。こんな生活をしていると、身体にはよくありません。

だから仕事を変えようかな、と思ったのですが、如何せん、自分の価値がわからないものですから、自分に何が向いているのかも、どの市場が自分に合うのかも見当がつかないんです。 というより、変化を怖がるあまり、先をみようとせず、ただ甘えているだけなんです。苦すぎず甘すぎずが心地よくて動けない。でも、薄給で不健康な仕事はどうにか改善したい。というわけです。単純だけど、難解です。

書きたいことはたくさんあるのですが、ネガティブな内容ですし、瓢簞から駒が出る、なんてことになったら困りますから、書けないんです。臆病でしょう。

こうして考えあぐねているわけです、いろんなことを。つまり、絶対解は無いということ。物事に臨機応変することが必要なわけです。その中で最適解を探せばいいと思うんです。一人ではなく、誰かとともに。

人は誰かと歩む時、他己責任にしがちです。(かくいう自分もそうだと思いますが)でも、結局、誰かと歩むときは、自己責任と他己責任が半分ずつ(大きさはともかく)存在すると思うんです。そもそも責任に大きさってありますか?あるかないかだと思うので、人と歩む時の責任は歩んだ人全員にあると思うんです。でも、他者批判をすること、他己責任にすることで楽になるのは事実です。なんだかんだ宗教というものもそういうものだと思っています。賛否あると思いますが、これを読んだ時点で、その賛否の責任は、あなたにも(私にも)ありますね。歩むとはそういうことでしょうか。

日常的にこういうことを話し合う相手がいればいいのですが、なかなか見つかりませんね。友だち。友だちの定義も人それぞれですし。

人と歩むということは非常に難しいことでもあります。仕事もそうですが、相手のために、何かのために、時間を使うということなんですね。つまり、人生を使う、命を使うということ。ですから、雇用する側は人の命を買い取っているわけですし、雇用される側は買い取ってもらえる「良い」命を用意しなければなりません。ここで言っているのは何も、良い命と悪い命があるとか、命の重みの違いがあるとか、そういうことではありません。自らをブラッシュアップし、自分で自分の居場所を見つけないといけないんです。こんな風に、雇う側も雇われる側も、「考えて」いれば良いんですが…。そういうのは少ないみたいですね。少なくとも私のところは…。結局は不平不満です。自らの至らなさを棚にあげて、他己責任にしているとも言えますね。正直なところ、自分の価値はもう少しあると思うんですが、評価されないということは、違うんですね、きっと。もう少し報酬が多くても良いんじゃ無いかと思うんですが、そうも行きませんね。Damn it.私のボスがこれを読んで報酬が上がると良いなぁ…なんて、無い物ねだり。

自分の価値も正しく把握できない、勇気も行動力もない臆病な木偶の坊に、ぴったりの生き方は見つかりますかね。

とりあえず、人一倍で駄目みたいなんで、2倍か3倍か。頑張って価値に気づいてもらえるようにします。価値があれば…ですが。

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