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編集者・藤原定家~芸術のことは自分に従う③

枝瀬です。
主に、教育、心理、コミュニケーションや
自己啓発、日々の気付きを発信しています。

「だい@初担任のサポーター」と
同一人物でして、

3月は

「だいアカウント」で
平日(月・水・金)3回
教育系の発信を、

「枝瀬アカウント」は
土日(不定期)に、
素の自分発信をしています。

最後までお付き合いいただけると
嬉しいです。


趣味です、道楽です。
書いてて楽しいから書いてます。

先週、2つの記事を投稿しました。

ゴッホ忌野清志郎

時代や世間とは一線を画し、
我が道を貫いて、自分の表現を全うした人

そんな人に自分は常々憧れがあります。

今回はマニアックすぎて
誰にも読まれないかもしれませんが・・💦

藤原定家でいきます!!

・・・・・・・・・

え、知らない??

もう、ちょっとだけ!

まだ閉じず、
もうしばしお付き合いくださいませ・・。

小倉百人一首の編集者

藤原定家・・・、
名前は「さだいえ」「ていか」
どちらの読み方もOKです。

平安時代末期から鎌倉時代初期に
活躍した公家・歌人で、
たくさんの仕事をした人なんですけど、

小倉百人一首の編集者

といえば、
直感的に最もわかりやすいでしょうか?

マンガ「ちはやふる」でも有名な
「百人一首かるた」の始祖ですね。

僕は、かるた部の顧問をやっていたのですが、
競技かるた人口ってかなりいるんですよ。

はじめて公式戦の引率に行ったときは
参加者の多さにビックリしました。

小学生から社会人まで
百人一首かるた好きは相当います。

学校でも、
百人一首の好きな子が多いので、

学期末の
比較的自由に授業時間を使えるときは
国語の時間に「百人一首」で遊んでました。

で、
どうせ遊ぶなら、
その由来を知るのも楽しいだろうと、
かつて授業にしたこともあります。

今回は、
その授業時に使ったスライドを用いて、
藤原定家を紹介していきますね。

藤原定家って何者?

生徒は講義より、百人一首かるたをやりたい(苦笑)
授業冒頭のスライドです

さて、藤原定家。
百人一首以外にもたくさんの仕事をしています。

由緒正しい「和歌」の家系

定家は、
藤原道長の系譜に連なります。

が、摂政関白を務めるような
政治の中枢ではなく

身分も
権中納言というのは、
藤原氏としては低め

なので、
定家一族は、
剣道・柔道、弓道、書道のように
「道」を極める方向に突き進みます。

すなわち、

歌道

和歌ですね。

御子左流(みこひだりりゅう)というのですが、
当代きっての和歌の名門として
公家社会をサバイバルしていきます。

『新古今和歌集』編集

歌道の名門・御子左家として、
大きな業績となったのは
『新古今和歌集』の編集でしょうか。

ん、新古今和歌集?

・・ですよね。

これ、わかりやすくイメージをするなら
時代のオムニバスベストアルバムづくり
思ってください。

しかも
「古」と「今」の和歌集ですからね、

美空ひばり
北島三郎
橋幸夫
石川さゆり

から、

Vaundy
SUPER BEAVER
Ado
milet

まで、

当代きっての歌い手たちの中でも
選りすぐりの代表曲となるものを

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
選び、
テーマごとに分類して、
並べた
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ベスト集というとイメージしやいでしょうか。

紅白歌合戦なら、
その年の
1年間のオムニバスですが、

『新古今和歌集』は
時間軸が数百年規模

当時も今も
日本人は和歌が好きですからね、

莫大な和歌の中から、
定家たちは、
名作を選び、構成し、並べていったのです。

これ、やってみたら、わかりますが、
めちゃめちゃ楽しかった作業だと
思います!!!!

古典だから、
いかつく感じてしまうだけで、

生徒に
「今の気分で自分の好きな音楽
 ベスト10作ってみて」とか

「春のベストソング5選を決めよう」
とかいうと

もう10分、20分じゃ足りないくらい
白熱します!!

たとえば、
最近のクリエイターの記事でも
仲川光さんや、りょーやんさんが
似たようなことをしていました。

やっていることは、まったく同じ。

『新古今和歌集』を編集したというのは、
時代のベストアルバムづくりなんです。

多くの作品を写本して現代に残す

定家の業績は、他にもあります。

これは、あまり知られていないのですが、
後世に残るとんでもない仕事でして、

さまざまな古典を書写し、
本文を整えた
ことでも有名です。

印刷機もコピー機もなかった当時、
文学作品は「書写」によって
流通していました。

でも、そうすると
当然、劣化していくんですね。

コピーのコピーのコピーでも
画像は大分荒くなるのだから、

写本の写本の写本になってくると
誤字脱字はもちろん、
勝手な改作なんかも横行して

どれが本物か、わからなくなってくる・・。

その点を憂いた定家は、
後世に本物を残そうと、

研究を重ねたうえで
「定本」づくりに取り組みます。

定家写本『土佐日記』

『源氏物語』
『伊勢物語』
『土佐日記』
『古今和歌集』

高校古典で扱う定番作品は、
定家の仕事によって、後世に残っているのです。

「定家のおかげで、古典の授業ができるんだぞ」
なんて言うと

高校生は「えー、余計なことするなよ」と
イヤそうな表情をしますが(苦笑)、

NHK大河ドラマ『光る君へ』が
放送されているのも
定家の影響が少しはあるんです。

ちなみに、
定家の文字。

独特のクセがあって、
当時から一部の人たちに人気がありました。

「定家フォント」なるものも
存在するみたいですよ!!

定家の美意識の執念

ここで一旦まとめましょう。

定家の業績は大きく3つ。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
①『小倉百人一首』編集
②『新古今和歌集』編集
③『源氏物語』をはじめとする文学の写本

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

さて、ここからが本題!!

ここで問題を出します。
スライドを見てください。

享年79歳と
当時としてはかなり長寿の定家。

その長い人生の中で、
大きな仕事を3つ成し遂げたわけですが、
それぞれ何歳のときの実績なのか???

ちょっとだけでもいいので
考えてくれたら嬉しいです。





・・・・・・
正解は、こちらのスライド!

『新古今和歌集』編集
   ⇒42歳のとき。

『小倉百人一首』編集
   ⇒晩年72歳のとき。

です。

ちなみに、
『源氏物語』をはじめとする文学の写本は、
60代のときの仕事

先にも挙げた、
この写本は、60代で行われました。

これがですね、
ただならぬ執念なんですよ。

どのような形で定家が写本をしていったか、
定家本人が日記の中でこう記しています。

手振ひ目盲ふと雖も、
黄門の懇切に依り、
承明門院姫宮に源氏物語の内三帖、
紅葉賀、未通女、藤裏葉、
書きて進らす。
(嘉禄二年五月二十六日の条、六十五歳)

源氏桐壺の巻を書く。
老眼悪筆、料紙不便となす。
(寛喜二年三月二十八日の条、六十九歳)

徒然の余り
一昨日より盲目の筆を染め、
伊勢物語を書き了んぬ。
其の字、鬼の如し。
(寛喜三年八月七日の条、七十歳)

定家の日記『明月記』より

この頃の定家は
目を悪くしていました。

当時の60代を、
今にあてはまると
どのくらいの体力なのか、

専門家ではないので、
そこまでわかりませんが、
そうスラスラ写本できたとは
考えにくいでしょう。

それでも

全54巻、
原稿用紙に換算すると約2400枚で
100万文字はあるといわれる
『源氏物語』をはじめ、

数々の文学作品を写本し続けるのです。

ここまで執念を燃やす
原動力はなんでしょう?

ここからは、
あくまでも僕の仮説になります。

もう一度、
定家の業績の流れのスライドをお見せしますね。

彼の人生において
承久の乱が1つの転機になりました。

承久の乱

承久の乱を覚えていますか?

鎌倉幕府に抵抗して
後鳥羽上皇が討伐の兵を挙げた戦で、

戦いそのものは
あっけなく上皇の敗北で終わります。

この乱が結果的に、
武家政権の基盤を強めることになるのですが、

要するに、
それまで栄華を誇っていた貴族が
敗れたのです。

定家は、「歌道」の人。

和歌や文学作品は
貴族文化の美意識の象徴ですよね。

武家政権の世の中にあって、

定家は、

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
貴族文化の美意識を
後世に残すために、
晩年、写本に努めたのではないか?
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

そう考えるのです。

百人一首の配列の妙

最晩年の仕事、
『小倉百人一首』の編集についても

定家がどのような思いで
それを作ったのか?

そもそも
『小倉百人一首』は

友人の依頼で、
小倉山 山荘の障子に貼るために
選出された100首の歌でした。

美空ひばりや石川さゆりから
欅坂48まで。

選りすぐりの歌い手を
100人選出し、

なおかつ、

その人達の作品を1首だけ選ぶ、という縛り。

百人一首は、
その並び方も工夫が凝らされています。

ここでは、
「冒頭」と「結び」。

すなわち、
1番歌と100番歌をとりあげますね。

昨年度の紅白にたとえるなら、

スタートは
「新しい学校のリーダーズ」の
『オトナブルー』

大トリは「MISIA」でした。
1曲ではなく『紅白スペシャル2023』

さて、
では『小倉百人一首』は????

スライドをお見せします。

1番 天智天皇

スタートは天智天皇です。

「大化の改新」で、
天皇による中央集権化を推し進めました。

貴族文化がはじまる
きっかけになった人であり、
平安時代には、
歴代天皇の祖として尊敬されていました。

つまり、
『小倉百人一首』は、

貴族文化の始祖となる方の歌から
スタートするのです。

100番 順徳院

そして、大トリは順徳院。

この方は
後鳥羽上皇とともに承久の乱で敗れて

佐渡に配流された
不遇の人。

いわば、
貴族文化の終焉を象徴する方といえる。
(ちなみに後鳥羽院の歌は99番目)

そんな順徳院の歌が
『小倉百人一首』の大トリを飾るのです。

ここまで考察すると
定家の編集意図がわかってくる。

『小倉百人一首』は、貴族文化の極上エキス

1番 天智天皇からはじまって
100番 順徳院で終わる。

『小倉百人一首』は
大体、時代順で並んでいますから、

時代でいうと、
約600年弱続いた
貴族文化。

その貴族文化の中でも
「歌道の家」を継ぐ定家にとって

和歌は、

自分の人生を賭けてきたもの

であると同時に、

貴族文化の美意識を凝縮したもの

といえるでしょう。

なんとしても、
その極上のエキスを後世に残そうとして
徹底的にこだわりぬき、
編集していったように思えます。

おわりに

仮説も交えているので
専門家が見たら、
ずいぶん軽薄な論考だったかもしれません。

わかりやすくイメージしやすいように
あえて、くだけた表現にしているつもりですが、

不快に感じられる方がいたら
ごめんなさい。

あくまで僕個人の意見として
理解していただければ、と思います。

ただ、
滅びゆく貴族文化……、
その極上のエキスを後世に残そうと

徹底的に自分の美意識を
貫いた彼の業績が

ほんの少しでも伝われば
嬉しい限りです。

そして、そして

そんな定家の思いが、
「かるた」という意外な形で
現代の人々にも深く根付いている事実に

胸が熱くなるのです。


長文乱文、
最後までお付き合いくださり
本当にありがとうございました。

これを読んでくださった
あなたの少しでも気づきになれば
嬉しいです。

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