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第6話 大沢の街 底なし池

 水の匂いがする日は、子どもの頃にしばらく住んでた街のことを思い出しちゃうんだよね。
 それなりに有名な暴れ川のほとりにある街だった。急峻な山を駆け下りてきた水が、くり返し溢れたことでできた扇状地のなかにあったんだって。社会科の授業でそう習ったんだけど、私は地図が苦手だったから、先生の作ってくれたプリントで扇形に広がってた街のカタチを覚えただけで、身体で理解できたわけじゃなかった。きっと車で走り回れる今なら、もっとよく理解できるんじゃないかな。あの場所がどんな土地だったのかを。まぁ、もう帰る理由がないんだけど。
 山の麓なだけあって、あの街の水はすごく美味しかった。
 春になるとね、ものすごい勢いで流れていく雪解け水で、街のあちこちにある農業用水路はいっぱいになった。すごい音だったよ。心臓に響くような迫力があった。そんな風に激しく流れても、雪解けの水はいつでも透明で、じっと覗いていたら、川底で踊ってる小石の影が見えるくらいだった。
 夏の水はもっと重たそうだったな。梅雨の水は土を含んで濁ってたし、真夏になると上流で水を溜めるから、私たちの地区にあった小さな流れはほとんど枯れちゃうの。でもね、そうすると川底に降りられるでしょ。これが楽しいの。石をめくったら沢蟹がいっぱいいたし、水の残ってる深みに手を突っ込んだら、メダカやハヤはもちろん、運がよかったらヤマメだって捕まえられた。亀はミシシッピアカミミガメが多かったけど、近くの池には甲羅の滑らかな茶色っぽい亀もいて、そういうのはたぶん日本の亀だったんじゃないかな。
 そこが不気味でさ、私たちは誰もこの池じゃ遊ばなかった。
 浅くて静かな池だった。用水路から引かれてきた水が、粒子が細かいふんわりした泥の表を、まるで膜が張ってあるみたいな優しさで包んで、薄く広がってた。いつも触ってる田んぼの水と同じもののはずなのに、なんだか穏やか過ぎて怖かった。
 菖蒲がたくさん植わってて、季節になると一斉に咲くんだけど、ほとんど誰も見に行く人はいなかったんじゃないかな。周りはぐるっと雑木林で、その一角にはお稲荷様があった。
 本当に浅い池でね、水深はほんの数センチだったんだけど、泥には底がないっていう話だった。足を踏み入れたら最後、頭の上までずぶずぶ沈んじゃいそうだなって、みんな思ってたの。本当のところは、そんなことないはずなんだけどね。だって危ないし。でも、すごく怖かった。あの池、田螺がいっぱいいてね。黒い小さな水棲の巻貝。その小さな貝ですら、軽い泥の表面に、いつでもちょっと沈んでたの。怖いでしょ、田螺もいない冷たい静かな泥の底に、頭の先まで沈んで埋まっちゃったらどうしようって、一度でも想像しちゃったら、頭から離れなくなっちゃう。
 そういえば、田螺っていえば、蛍が食べるでしょ。きれいな水とたくさんの田螺。夏の夜は毎日が特別だった。
 今日は光るかな、どうかなって思いながら、どんどん暗くなるなかを池のほとりに行くの。骨も浮かばないことになってる、あの池のほとりにね。すると、だいたい一匹二匹、運がよかったら数える気にならないくらい、青緑色に光る影がうろうろしてた。
 ほんの数回だけ、お稲荷様のところまで出てきちゃった蛍も見かけたな。水辺を離れて、仲間とはぐれて、一匹だけでふらふら飛んでるの。迷子なのは自分の方なのに、まるでどこかに行っちゃった誰かを探してるみたいだった。
 蛍の光が黄緑色だったからかな。風雨に褪せちゃって、お日さまの下ではもう白っぽく見えるくらいに傷んで、蜘蛛の巣が白いヴェールみたいに取り巻いてるお稲荷様の鳥居とお社がね、蛍の光の向こう側にあるときだけは、なんだかすごく朱くみえたような気がする。
 田舎の夜は虫の声でいっぱいのはずなのに、あの暗がりだけはひっそりとしていて、夜が深くて怖かった。そこに迷い込んじゃう寂しい蛍がね、なぜだか私はすごく好きだった。

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