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金木犀が朽ちるまで

 金木犀ということばを母から習った、秋の日のことを覚えている。陽光の乏しい、とても寒い日だった。私は親戚のお兄ちゃんからお下がりでもらったばかりの、重たいジャンパーを着ていた。明るい灰色だったはずのブロック塀が黒く濡れていたから、雨が降り止んだ直後だったのかも知れない。まだ私が幼稚園に通っていた頃、私たちの暮らしていたマンションのガレージには、その白っぽいブロック塀を背にして数本の金木犀が植わっていて、それがどれも満開に咲いていた。
 濃いオレンジ色の花が強く香っているのに気づいて、私は興奮した。母が金木犀という名前を教えてくれたことは覚えているけれど、どんな顔をしていたのかとか、声の調子はどうだったのかとか、そういうディティールはなにも覚えていない。ただ、母から金木犀ということばを習ったことだけを覚えている。
 その翌日、私は幼稚園である絵本を読んだ。天高く馬肥ゆるといった感じの青い空が窓に眩しかった。秋の遊び方を紹介した絵本に、金木犀が載っていた。放課後、母に頼んでおもちゃの足しにとストックしてあったヤクルトの空きボトルをいくつかもらって、いつも遊び場にしていた駐車場に出たとき、やっぱり金木犀が濃いオレンジ色をしていたのを覚えている。母の言いつけで、咲いている花は採ってはいけないことになっていた。花壇の土のうえに落ちた金木犀の花のなかから、比較的に新鮮で美しいものをボトルに集めて、幼稚園にあった本に載っていた子ども達がやっていたとおり、それを水で満たした。
 次の日、金木犀を一晩浸していた水は、薄いオレンジ色に透き通って、甘い匂いを放つようになっていた。私の人生で最初の香水がこれだった。私はずっと大切に取っておきたかったんだけれど、母との約束は「腐らないうちに捨てること」だったから、落ちた花と蛇口の水で作った香水は早々に金木犀の根元へ撒いてしまって、それ以来この遊びは一度もしていない。

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