在宅介・看護から在宅死の難しさ

認知症と嚥下障害で中心静脈栄養のみで生きている父を退院させ家に戻すと決めた時、次の3つを目標とした。 目標というより自分に言い聞かせる訓示みたいなものだったが。
1. 再入院はさせない。
2. 救急車は呼ばない。
3. (自分が行う作業について)安全第一。

結論から言うと、私はいざ「その時」が来た時、私の中の「恐怖と希望」が救急車を呼び再入院させるという道を選んでしまった。実際父は助かり回復しているが、この判断を下した罪悪感と自己嫌悪感(自信喪失)に未だ立ち直れずにいる。暗く先の見えないトンネルの中で答えの出ない問答をひとり繰り返している感じで頭がおかしくなりそうだ。

中心静脈栄養法はTPNと呼ばれているがTPN=Total Parenteral Nutritionなので元々意味する言葉は「完全な非経口による栄養補給」という事で、口からものが食べられない人の静脈に直接高カロリーの栄養を流し込む事によって必要最低限な栄養素を送り込む、というシステムだ。 実際父は昨年9月から一切口から食べ物を食べていない。 TPNを行う場合大きく分けて、CVC(Central Venous Catheter)、つまり中心静脈(Central Venous)に挿入したカテーテル管をそのままむき出しの状態で置く場合とCVポートと呼ばれる皮下埋め込み型のポートを形成する場合があるが、父の場合は前者で対応している。一部では「延命措置」と否定な意味を込めて表現する人も居るが、実際にある期間この状態で生きながらえた末に回復し、また口から食べられる様になった人も大勢いるのでひとくくりに「延命措置」と呼ぶのはかなり乱暴だと思う。

ただ、高齢の父は嚥下障害ゆえにこの処置をとっている訳で、この状態からまた口から食べ物を摂取できる状態に戻る可能性は極めて低いと言わざるをえない。老人の嚥下障害は詰まるところ老化現象で、舌から喉の筋肉が弱り自力で食べ物を飲み込めない状態である。老人であっても嚥下訓練を繰り返す事で状況が好転する事はある様だが、現実問題として継続的かつ効果的に嚥下訓練を行う事はかなりハードルが高い。理由はふたつある。嚥下訓練を安全に行う為にはそれなりの知識と技術が必要で、言語聴覚士、ST=Speech-Language-Hearing Therapist と呼ばれるプロの指導が不可欠だ。残念ながらこのSTの数は少なく、ましてや個人レベルで毎日1時間、、、なんて事は出来ない。二つ目は訓練だろうが何だろうが口から何かを食べさせるという行為はそのまま窒息や誤嚥性肺炎発症の危険度を高める事になる。

嚥下障害が父のレベルで悪化すると、数時間に一度の頻度でのどから異物の吸引を行わなければならなくなる。これは「喀痰吸引」と呼ばれる医療行為で吸引器と呼ばれる小型のポンプがついた機械の先端に細い管(カテーテル)をつけてそれを口、又は鼻から挿入し、喉に詰まったものを20~30Paの圧力で吸引する作業だ。鼻から胃カメラを通した経験があれば想像できると思うが、それなりの苦痛が伴う。これを行わないと仮に経口で物を摂取していなくても唾液や痰がどんどん喉に蓄積していき、窒息や誤嚥性肺炎という事態を引き起こす。各痰吸引は医療行為故に前提、看護師資格を持った者が行うが、例外的に家族又は厚生労働省指揮の元、都道府県が認可した研修期間での研修を完了した介護士などがこの作業を行う事が出来るが、少なくとも病院の「退院に向けた家族研修」を受けただけの家族(シロウト)の技量ではかなり技術的精度に問題が残ると思う。父の場合は、私がこの「家族研修」を受けて対応したが、実父の鼻にチューブを20cm近く突っ込み、苦痛の表情をみながら夜間何度もその作業をする事はかなり辛い上に、実際充分に痰を吸引しきれない。「何度もやっていればうまくなる」と看護師さんは慰めてくれるが、きっと私が上手くなる前に彼は死んでしまうだろう。

こうした事は全て、事前に知識として理解した上で父を退院させる決断をし、冒頭の様な決意を固めた筈だった。彼の様に完全回復が見込めない老人は今いる一般病院から出され、療養型病院(療養病床を備えた病院)という所に転院させる事になる。少なくとも私が調べた限りではここが「治療」の最終地点であり、多くの人はこの施設の天井を見ながら亡くなっていくことになる。しかもこのコロナ禍でほぼすべての病院や介護施設は完全に面会謝絶だ。本人に会う事は勿論、施設の見学すらできない。そこに入れるという事はその瞬間から彼とは彼が死ぬまで会えないという事であり、入所・入院後に彼がどのような扱いを受けるかもわからないまま、ただ悪い知らせを待つという事を意味する。それなら、認知症ながらかろうじて彼が彼で居るうちに自宅に連れて帰り、自宅で看取ろう、、、そんなモチベーションだった。 が、甘かった。

人の死はテレビで見るような「すーっと息を引き取る」穏やかなものばかりではない。 家に帰って間もなく父は肺炎を発症。突然40度を超える高熱を出してあえぎ、呼吸困難に苦しみ続けた。 肺炎であった事は後に再入院した病院で分かった事で、その時私の目の前にあったのはただ苦しむ父の姿だけ。何が起こっているかなんて冷静に考える余裕はなく、「どうすれば楽にしてやれるか」しか頭の中になかった。激しく早い呼吸と同時に聞こえる舌なのか痰なのかが喉に絡むイビキとも痰を出す音とも分からない音。ある時ぴったっと呼吸が止まり目を閉じたと思ったら数秒後にカッと目を見開き必死に息を吸おうともがく。それが何分というレベルではなく何時間も続くのだ。夜中一人でそんな姿を見ながら電話の緊急窓口経由で看護師から指示を仰ぎ、夜が明けて訪問看護で現れた看護師が検診すると危険なレベルで血圧が低下しているという。そのまま放っておけば確実に死亡するが、そこからあと何時間苦しめば楽になるのかは分からない。私は自分に問いかける。「これがオレの望んた事なのか?」「これがオヤジが望んた最後なのか?」

医療従事者の任務は人を救う事で死に向かわせる事ではない。幸運にもこの国の医療従事者の方々は皆そうしたマインドで仕事をしてくれている。訪問看護の方は病院戻しという選択肢がある事を、そんな状態で右往左往している私に告げる。それは天使のささやきだったのか悪魔のささやきだったのか、今でも判らないが、苦しむ父を見続ける「恐怖」から逃げたかった私は病院に戻せば少なくとも酸素吸入など緩和ケアをしてくれる、という「希望」のみで自分が当初掲げていた目標をあっさり捨てる事になるのだ。

コロナ禍で病院や救急隊員の業務が切迫しているという事はテレビなどから充分理解している積りだった。またとある在宅介護を題材にした番組(↓)でとある研修医の方が自宅で亡くなると決めていた患者さんが救急搬送されてきて事に疑問を感じた、といったコメントをしているのを聞いて「身勝手な人もいるんだな」と思ったりもした。そんな私が最後に真逆の判断をする。「オレはあの時どうかしていたのか?」「オレは身勝手なヤツなのか?」「やっぱり考えが甘かったのか?」「そもそも家で死ぬことに拘る意味があるのか?」判っていた積りで判っていなかった疑問が自分に降りかかっている。




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