【#4】海外留学〜2社目選択の背景

いよいよ留学

 カナダのバンクーバーへは、語学留学のために行きました。塾講師の仕事を通じて蓄えた資金にも限りがあったため、ワーキングホリデービザを取得し、場合によっては現地で仕事をしながら滞在をする選択をしました。

 初めての海外長期滞在に胸を躍らせて向かったものの、現地の語学学校での私の英語のレベルは想定よりも低く査定され、日本では英語を教える立場だった私は鼻をへし折られました。日々、語学学校から課される予習をこなし、学校が終わるとそれを復習するサイクルを繰り返しました。また、現地では日本人よりも海外の方々と関わることに重きを置いて過ごすようにしました。学校の課題から学ぶことも確かに多くありましたが、それよりも現地で出会った学校以外のコミュニティの方々との関わりが、私にとっては語学力を格段にアップさせてくれたと思います。最も貴重だったのは、現地のキリスト教会での出会いです。教会では日曜日に集会が行われるのですが、その後に誰が発起人でもなく繰り広げられる立食の場があり、その場を通じて本当に多くの方々との出会いがありました。国籍・年齢・職業も多種多様な方々との出会いが、現地での生活を充実したものにしてくれました。一緒に山登りに行ったり、現地の名所を巡ったり、カフェで語り合ったりと、多くの時間を共にした当時の友人とは、今も定期的に情報交換をする仲です。

キャリア中断の焦り

 語学留学も2ヶ月目を終えた頃、私は新聞社やテレビ局の入社試験に向けた準備に着手していました。当時の私は、次の仕事では、英語と何かを掛け合わせたことがしたいと思っていました。その一つが、新聞社やテレビ局の記者として働くことでした。カナダに渡航する前から就職イベントや個別の場で実際の記者の方にお会いして話を伺ったりする中で、これからの世の中を象徴するような出来事が起こっているまさにその瞬間に立ち会い、現場と人をつなぐハブとなって仕事をしていくその姿に深い興味を抱き、この仕事に取り組みたいという強い気持ちを持っていました。私が記者職を志していた当時は、4月と9月にしか入社試験のタイミングがなく、内定にたどり着くには、書類選考を通過した後、時事問題や与えられたテーマに対する作文が課される筆記試験と、面接試験を通過する必要がありました。特に私にとっては、筆記試験と面接試験が難関だと認識しており、日々新聞を読んで時事をアップデートしたり、自分の考えを文章化する練習に取り組んでいました。カナダへの渡航前に、次はどんな職につくかを考えていた最中、自分なりの対策をして臨んだ全国紙の新聞社の入社試験で筆記試験を通過し、面接で不合格となった経験がありました。その経験を振り返り、もっと力を注げば内定まで辿り着けるのではないかという感覚を持っていたのです。そんな背景もあり、なんとなくではありますが英語のコミュニケーション力がアップした自負を持つことができた私は、あまり英語ばかりにこだわりすぎるのも良くないのではないかという疑問を覚え、次の記者職の入社試験のタイミングに合わせて準備を開始したのです。そして、3ヶ月経過した頃、私は帰国を決断。日本で実施される同年9月の入社試験に臨むことにしました。

苦難の始まり

 英語力は一定身についたという自負を持って帰国したものの、私は生活力のない立場でした。というのも、ワーキングホリデービザを取得して渡航したものの、早々に帰国する決断に至った私は、結局現地で仕事をしなかったからです。アルバイト雑誌にも目を通して、当面の資金を確保しようと考えたものの、次の就職先を決める活動に専念した方が良いという判断を下し、関西に住んでいた友人の家に居候させてもらいながら、記者職の試験に向けた準備を行いました。
 そうして臨んだ9月の入社試験。自分の夢は儚く散り、結局一社からも内定はいただけませんでした。それでも夢を諦めきれなかった私は、活動拠点を移す決断をします。当時、私は学生時代からお付き合いしている女性がいました。彼女が関西に住んでいたため、私は関西採用の枠がある新聞社・テレビ局を中心に入社試験に臨んでいました。まずその時点でチャンスを逃していると考えた私は、活動の拠点を東京に移し、次回の4月の入社試験ではもっと多くの枠に挑める場でチャレンジしようと考えました。当時の私にとっては、自分が長く勤められる職に就くことが彼女を幸せにするためには最善と考えていたため、彼女にも自分の意向を説明し、思い切って関西を出る決断をしました。こうして、1ヶ月ほどお世話になった友人宅を後にし、キャリーケースを引きながら、夜行バスに乗って東京に向かいました。

いざ、東京へ


 東京では弟が専門学校に通っていて、既にアパートに住んでいました。「長男は、弟を支えてあげる存在」と常々思っていましたが、この時ばかりはプライドも捨てて、情けないと思いつつも、住む場所は弟に世話になることにしました。ただ、次の入社試験が控える4月までは結構時間があります。さすがに収入を得にいかないと生活が成り立たないと考え、派遣会社に登録し、某生活用品量販店で働くことにしました。そうして、弟との共同生活を金銭的な面でサポートをしつつ、自分の勉強にも取り組むという日々がスタートしました。
 実は当時住んでいた弟のアパートには門限があって、どうしても仕事で夜遅くなることがあると、アパートの門限の時間を過ぎてしまうような状況でした。そんな時は、アパートの建物の裏口をこっそり開けてもらって、私はその裏口に行くまでの高い塀を登って、コソコソとその裏口から何事もなかったかのように建物に入る、そんなこともありました(本当はやってはいけませんが…)。今の時代でもこんなアパートがあるんだと思ったものです。

再チャレンジ

 弟のアパートは、その年は年末年始に管理人が不在にするという理由で、年末からしばらくの間、入室することが出来なくなりました。その間、私はネットカフェで夜を過ごし、朝仕事に出るという日々を送りました。そんな寒く寂しい冬を経て、迎えた4月。ついに新聞社・テレビ局の入社試験への再チャレンジのタイミングがやってきました。私はこのチャレンジをするにあたって、これが記者職への最後のチャレンジと決めていました。さすがにこれ以上、長男として父母に心配をかけられないし、キャリアに空白期間を刻んで同級生に差をつけられる訳にはいかない、そんな思いが決断の背景にありました。なんとしても内定に辿り着きたいその一心で、今回のチャレンジにあたっては、派遣社員としての収入の一部をマスコミ就職予備校の通学費に充てて、内定をもらうために必要な情報を十分インプットしてから臨むようにしました。その予備校の生徒はほとんど新卒で内定を狙う大学3,4年生でした。年下の学生から辛辣な評価を受けることもありましたが、全ては内定を得るためという考えから、なんとか予備校の授業の内容にも食らいついて行きました。
 そして臨んだ入社試験。筆記試験は、今までの中で一番良い出来で、自信を持って終えることができました。そして、それまでで一番多くの企業から、面接試験へのinvitationをいただくことができました。しかし、面接試験が私にとっては難関でした。今振り返ると、新聞社・テレビ局だけに絞った転職活動をしていたが故に、筆記試験を通過できた数しか面接を経験することができず、圧倒的に本番を経験する回数が不足していたと思います。二次面接へ進んだ企業もあったものの、結果は厳しいもので、一つも内定をいただくことなく、私のチャレンジは幕を閉じました
 この結果を受けて、私はこれまで支えてくれた方々へ嬉しい報告ができなかった自分の力不足を痛感し、自分を責めました。もっと努力ができたのではないか、あの時ああしておけば良かったのではないか、そんな後悔の念ばかりが頭をよぎり、数日間は落ち込んで塞ぎ込みました。自分は、気持ちがしんどい時は体を動かすことが最良な人間だと理解していたため、数日間、時間があれば走っていました。
 そして数日後、気持ちがようやく転職活動に向き、英語を活かした仕事はどんなものがあるのかを見定めに転職エージェントに相談に行きました。

2社目の決断

 転職エージェントの方からは、いろんな職種を紹介していただきました。英語を活かす仕事環境は、いくつかあります。例えば、職種軸で探すと海外を相手にした営業職もありますし、会社軸で探すと外資系企業で働けば自ずと社内で英語でコミュニケーションすることが求められたりもします。私は、その両軸でヒットする企業にアプライし、自分がこれまで経験してきた学習塾での経験を最大限アピールすること何でも積極的に取り組むというポジティブな姿勢を売り込むことだけを心がけて、面接に臨みました。
 そして、活動開始から2ヶ月ほど経過した5月、ようやく私は正社員として外資系保険会社から内定をいただき、6月から勤務することになりました。この時の喜びは、今でもはっきりと覚えています。この時、学習塾を退職してから1年2ヶ月が経過していました。

振り返り

 私の最初の転職活動は、途中の海外語学留学やマスコミへのこだわりが影響して、だいぶ長丁場になりました。しかしながら、自分がこだわりたい軸を見つけることができたことや、挫折を経験できたことはすごく良かったと評価しています。
 まずこだわりたい軸でいうと、私の場合は英語です。今思うと、そこまで英語が上達していたわけではないものの、英語が好きということには偽りがなく、その興味・関心を社会人になっても常に尊重できるような環境で仕事をしていきたいという想いが強くあることに気づけました(これは今でも変わっていません)。好きなことや興味があることに取り組んだり関わっている時間は、他の物事が気にならない感覚を覚えた経験をした方がいらっしゃるのではないでしょうか。この状態は、いわゆる「集中状態(フロー状態)」です。私は、人はこの状態下にある時、最も幸せだと思うのです。仕事で言うと、それは職務とかジョブディスクリプション(JD)で定められる部分になります。仕事となると、給料や会社のステータスといったあらゆる条件が判断に加味されることになるのがほとんどのケースかと思いますが、楽しく仕事をしたいのであれば、仕事をしている時間の幸福度を左右する職務・JDこそ最も重要視すべき条件だというのが私の持論です。英語というキーワードが職務・JDにあることが、幸福を感じながら仕事ができると理解できたことは、大きな気づきの一つでした。
 また、挫折の経験という観点でいうと、この期間における経験が私にとっては自分の人生(自分史)の底辺のような位置付けだと思っています。持論として、自分史の底辺となるような期間・経験を定義することは、その後の人生の挫折から這い上がる際に非常に役に立ちます。それは、挫折に直面したとしても「あの時に比べたら大したことないや」とか、「あのひどい経験に比べたらこんな小さなことで悩んでたら損だな」と思えるからです。失敗や挫折に直面して、落ち込みのフェーズに長く居座ってしまいがちな方もいらっしゃると思いますが、落ち込みからは何も生まれません。失敗や挫折を過去の経験として整理し、そこからの学びを得ることこそが自分の成長につながります。這い上がりの拠り所を自分の中に作ることができたことは、非常に貴重でした。

契約社員から正社員になって

 もう一つ言及しておきますと、私は新卒では契約社員として働く道を選び、しばらく仕事を離れ、その後の転職活動を経て正社員になった経緯があります。この転職活動は、いわゆる第二新卒扱いでの転職活動でした。新卒での就職活動は、職歴がないにも関わらず企業に採用してもらえる可能性を大いに秘めた「ゴールドカード」を持ち合わせた状態であると過去の投稿で述べてきました。ほとんどの方にとって、新卒という立場は人生に一度しか巡ってこない貴重な立場です。新卒入社を目指す方には、是非このカードを最大限活用してほしいと強く思います。しかしここで私がお伝えしたいのは、仮に新卒の立場で正社員入社ができなかったとしても、悲観する必要はないということです。その後でも、私のように第二新卒扱いとして正社員として入社することは可能ですし、派遣社員から正社員に登用される道だってあります(私の周りでも、派遣社員から正社員登用された方は数名いらっしゃいます)。その実態を踏まえた上で、私は、学生時代に何かやり残したことがあって就職するかどうか悩んでいる方には、「やりたいことに取り組んでみてからでも就職はできるから、精一杯取り組んでみて!」というメッセージを送りたいと思います。やりたいことをやらないままに気持ちに蓋をしてしまうと、後々その気持ちは蘇ってきます。さらに、やってみないままだと何の学びも得られませんが、やってみて仮に失敗したとしてもその後の人生を豊かにする学びが得られます。その後の人生が数十年続くと考えれば、少しでも学びを得られるような行動を起こして、少しでもその後の人生を豊かにできた方が良いのではないでしょうか。
 ただし、ここで一言申し添えたいことがあります。それは、就職を後回しにする決断をするにあたって、「3つの答え」を用意できるよう活動した方が良いということです。是非、以下の3つの問いに答えられるよう、3つの答えを用意してほしいと思います。

  1. 就職せずに何をしていたのか?

  2. その取り組みから何を得たのか?

  3. 得られたことがどう仕事で活きそうなのか?

 この3つの問いは、後々巡ってくる就職面接の場で必ず問われます。就職を後回しにするのであれば、やりたいことに取り組んだ結果得られた自身の成長を力説できるようにしておくことが肝要です。その成長を面接官に理解してもらうためには、この3つの問いに答えられるようにすることは必須です。やりたいことに取り組むにあたっては、これらの問いへの答えにその取り組みがどう繋がるのかを自問自答しながら取り組むと良いと思います。

 見逃し三振するよりは、空振ってでも本気でバットを振りに行ってみてください。

続きは、次の投稿で。

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