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湘南の農家に生まれて:92歳じいちゃんのこぼれ話

じいちゃんは今日も元気だ。
じいちゃんとは義父のことで、わたしが嫁に来て以来41年間いっしょに暮らしている。
今年93歳になる。


このトシになっても、じいちゃんは野菜作りがいちばんの趣味だ。元気だからこそ出来ることなので、結構なことだと周囲は見守っている。
本人は、それを趣味道楽だとは決して思っていないようだ。しかし、誰が見ても趣味の範囲の庭先菜園で、採れる野菜も家族3人で食べて少しよそに分けるくらい。

では何故、じいちゃんが趣味ではなくすこぶる本気なのかというと、その昔じいちゃんは農家の長男に生まれて、父親に早くに死なれ、子どもの頃から必死で畑を耕して生きてきた、そんな生い立ちに理由あるのではなかろうかと、わたしは想像している。
農業は本気でかからねば敵わぬものと、カラダに沁みついているのではないだろうか。


じいちゃんが子どもの頃のこと、当時の田舎農家は畑を耕すにも鍬1本。
機械などはいっさい無かったという。
牛を1頭飼っていたが、もっぱら荷車を引かせるためのもの。現代でいうと農家の軽トラの位置に牛はいたようだ。

じいちゃんの両親が営んでいた畑作は、広さ1町いっちょう
1町が、面積を表しているのはわかるが広さとしてピンとこない。
ええっと‥‥、1町が10反で、1反が300坪だから、3000坪って、畳6000枚分の広さって?なおさらわからない。(換算のしかたを誤った)
東京ドームが何坪か調べたら4000坪だそうなので、それよりは狭いのか。
想像したよりも広大ではなかったが、現代のトラクター農業とはわけが違い、それはとても苦しいものだったとじいちゃんは語った。
昼のみならず、月のある夜には畑に出て、土を耕したそうだ。

じいちゃんの父親が死んだのは、じいちゃんが11~12歳のころだったが、その何年も前から胃癌を病んでしまい病床に伏していた。
母親ひとりでは畑をやりきれない。
薪割りや牛の世話など、男の仕事はいくらでもあった。
長男だったじいちゃんは学校にも行かず、家の仕事を手伝ったそうだ。
家には姉さんが2人いて、洗濯や炊事をやりながら畑にも出たが、やがて上の姉さんは奉公に出て行く。

じいちゃんの下には弟が2人と妹が1人。
農業の戦力にならない弟たちは学校に通っていた。
末の妹は、歳がはなれていて幼く、じいちゃんは子守りもしながら畑の夏草を刈り、妹がむずかると背におぶって家へ帰った。

当時の高等科(現在の中学校)の先生が、授業に出てくるようにとじいちゃんを呼びに来たこともあった。しかし、家の状態を見ると、先生は黙って帰って行ったそうだ。

戦争と重なる時代の話でもあり、周囲の人々は勤労奉仕に動員されるようになっていた。
じいちゃんも含め、子どもたちも学校に行く代わりに、近所の農家へ手伝いに駆り出された。

自分の家の農作業を休んでよその家の農作業をやりに行かされるなんて、ちょっと納得できないではないか。
しかし、昔の人はお上に命ぜられたことはきちんと守って一心に尽くしていて、それは子どもも同様だったようだ。
冬は麦踏み。
よその家の麦畑に、20~30人の子どもたちが並んでいっせいに踏んで歩く。
踏めば踏むほどいいんだと、子どもでもみんな農家だから、やりかたは知っているんだと、じいちゃんは語った。

たばこの葉が高値で売れたので、じいちゃんの家でも大々的に育てていた。
葉にはタバコガの幼虫がつくので、その時期には両の素手でつまみつぶして駆除しまくったそうだが、それはじいちゃんにとって、今でも思い出したくない農作業の筆頭のようだ。
ちなみに次点は「しもごえあつめ」と言ったが、詳細は聞かずにおいた。

小学6年生の時にはもう俵を編んだと、じいちゃんは自慢げに言った。
俵と言われても、わたしもナマの俵はお目にかかった記憶が無い。
昔話に出てくる、お米がどっさり詰まっててネズミがかじるやつが俵だ。
あれは確か、稲のワラで編むんだったよね。昔の人の知恵と工夫と
あれを、小学6年生の子どもが編むのか?どうやって?

見よう見まねで覚えたらしいが、あれは農家にとって重要な必需品なのだという。米でも麦でも芋でも炭でも、あれが無いと運ぶことが出来ない。
なので冬のあいだは、せっせと俵を編んだということだ。

俵に米を詰めると60キロだが、芋を詰めると12~13キロ。
じいちゃんは、芋俵をいっぱい積んだ荷車を牛に曳かせて、茅ケ崎の駅までよく運んだそうだ。
その荷車には、1回に35俵積むのが目安だったというから驚いた。4~5段に積み上げたんだよと、じいちゃんは涼しい顔だ。
終戦の玉音放送は、その帰り道で聞いたと言っていた。13歳だった。

大人になったじいちゃんは、自分の家の農作業のかたわらで、現金収入を得るために植木屋で働かせてもらったりしていた。
時には、横浜の港まで遠征して波止場人足はとばにんそく(船荷の積み降ろしをする力仕事の人)として働いたが、あれは日給がよかったなぁとふり返る。

そして、今は亡きばあちゃんと一緒になった時に、家のことは弟に譲って、新しい土地で自分の家を建てて生活をスタートしたわけだ。


あれから70余年。
じいちゃんは、どんな時でも野菜作りを欠かさず、仕事の休みにはいつも土を耕していた。売るほどの量を作った謎の時代もあった。
空いてる土地を見ると、耕して何かを植えずにはいられないように出来ちゃってるんだ。だれにも止められない。

しかし、トシもトシだし、86歳で運転免許返納したあたりから、じわじわと作付け面積は減少して、ようやく現在は庭先の菜園だけになった。
よく猫のひたいほどと言うが、畳5~6枚程度の家庭菜園だ。
それでも、じいちゃんの農家魂は本気モードで燃えている。

そのいでたちは、専業農家の現役オジイサンそのもので本腰が入っている。これから弁当でも持って畑に出るのかと思うくらいの圧で、いざ作業時間は2~3時間どまり。
普段着で気軽にやればいいんじゃないの? (そうはいかないみたいだ) 

夏野菜の栽培に必要な支柱も、苗がたった15本なのに対して70本も、重い重いと言いながら(お寺の竹林から)調達してきた。
苗1本に支柱1本じゃ、いけないの? (いけないらしい)

そしてじいちゃんが菜園に入ると、何をどうやったのかよくわからないが、玄関が内も外も泥だらけ。
服も泥だらけ。
汚し方だけは農家並みだと冷やかす者がいるが、じいちゃんは気にしない。汚した分だけ、やりきった感が出るかのようだ。
かなり必死で、かなり夢中、とことん精一杯やってるのだろう。
そりゃそうだ、92歳だもの。


かつて、畳6000枚分だった畑は今や畳6枚分となって、1000分の1には違いないけれど、じいちゃんは変わらぬ本気で野菜作りに精を出している。
カボチャが実れば、来年のためにタネを外して取っておく。

今はエンドウ豆の最盛期。
トマトやナス、キュウリも夏へ向かってすくすくと育っている。



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