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勉強の時間 自分を知る試み15

倫理的な問題なのか?


こう書いてきて、またひとつ疑問が湧いてきました。これは倫理的な問題なのか?ということです。

つまり、科学的・理性的・合理的な考え方それ自体はいいのだけど、それを活用するときに活用する人たちや組織、国家が邪悪だったり、自分たちが間違っていることに気づかなかったりすると、他人や他の組織、他の国や地域の領域を侵略したり、支配してしまったりということが起きる。

要は倫理的、政治的な問題であって、科学的・理性的・合理的な考え方自体に罪はない。

現状、世界にはいろんな問題が起きているけど、科学的・理性的・合理的に考えることで、自分たちを修正して、問題を乗り越えていけるはずだ、といった考え方ができるのかということです。

これは『暴力の人類史』のスティーヴン・ピンカーの考え方ですし、影響力を持っている多くの政治家や学者、実業家たちの考え方でもあります。

もちろん一般人にもそういう考え方をする人たちはたくさんいるでしょう。色々問題はあるにしても、近代以降の世界の進化を支えてきた原理は基本的に正しいと考える人たちです。

彼らは進歩的で、人道主義的で、自由競争のゲームに負けて、貧困や飢餓や災害や専制的な支配や紛争で困っている人たちに同情したり、援助したりしますが、自由競争や科学的・理性的・合理的な仕組みは否定しません。

彼らにとって、問題は科学的・理性的・合理的な考え方や仕組み自体ではなく、それを政治や経済活動に活用するやり方にあり、そうした倫理的な問題を解決すべきなのでしょう。



「自由」が擁護する支配


また、進歩的で人道的な考え方をする人たちは、科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みを支配に活用する人たちの、倫理的・人道的でない部分を非難するかもしれませんが、科学的・理性的・合理的な方法の活用自体は否定しません。

科学的・理性的・合理的な方法を活用する人たちや組織、国家にも、思想や行動の自由とか権利があるからです。

科学的・理性的・合理的な考え方は、活用のしかたによって結果的に格差や対立、人権侵害を生んでしまうことがあるにしても、大きな意味では人類全体を豊かにしたり、昔より平等で暮らしやすい世の中にしたりといった、いい面も多々あるのだから、それまで根本的に否定してしまうのは間違っていると考えることもできるでしょう。

この自由の尊重は、支配している側と支配されている側両方の自由を認めているように見えますが、現状は支配が存在するわけですから、実質的に支配している側を支持することになります。

支配される側の自由は支配する側によって削られ、奪われるからです。

自由の尊重も啓蒙主義的な考え方ですから、近代の科学的・理性的・合理的な考え方の一部と言えるでしょう。つまり科学的・理性的・合理的な考え方自体に問題があるわけです。

多くのリベラルで人道主義的な思想が現実の世界で無力なのは、思想が国家のように支配の機構を持っていないからではなく、そもそも科学的・理性的・合理的な考え方自体に、強い側、支配する側の権利を認めてしまうという欠陥があるからなんじゃないでしょうか?


『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル



考え方の勉強


近代以降正しいとされてきた、科学的・理性的・合理的な考え方のどこが問題なのか、僕も含めて人類はまだちゃんと気づくことができないでいるんじゃないか?

この疑問が「自分を知る試み」を始めたきっかけでした。

そもそも自分は、人類はどんな考え方をしているのか、するべきなのかを知らずに、現実世界の問題をつついて、その根底にある科学的・理性的・合理的な考え方いや仕組みがもたらしたものを批判しているだけでは、堂々巡りになるだけです。

自分がどんなふうに考えているのかを知るために、何年か前からあれこれ哲学書と呼ばれている本を読んでいるという話を前にしましたが、どれもけっこう難しくて、初歩的なことを理解するだけでも一苦労で、なかなか自分の考え方に活かすところまでたどりつけませんでした。

しかし、最近読んだ本の中に、僕をこの堂々巡りから脱出するためのヒントになりそうな考え方を見つけました。それがドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』です。1980年生まれですから今42歳。1953年生まれの僕より二回り以上若い哲学者です。

現代の哲学が、存在とか意味を否定して、あるのは記号だけ、人間が認識した概念だけといったことにしてしまったために、「じゃあ現実については何も語れないんじゃないか」、「でも、そう言っているあなたは存在してないのか」とか、混沌と自家撞着に陥っていたのを、ガブリエルは新しい実在論という立場から、存在や意味を再定義して、哲学に新しい可能性を開こうとしていて、世界的に注目されているとのこと。

僕がこれまで読んできた哲学・思想書は、専門用語だらけで難しいものがほとんどでしたが、『なぜ世界は存在しないのか』は、哲学の素人にもわかるように、哲学的な概念を身近な例で説明したり、簡単な考え方のトレーニングをさせてくれたりするので、哲学の基本から、今何が問題になっていて、どう考えたらそれを乗り越えられるのかが、納得のいくかたちで理解することができました。



「全世界」は存在しない


タイトルの『なぜ世界は存在しないのか』は、この世には我々も何も存在しないとか、一切は虚無であるという意味ではなく、すべてを包括的に含むような全体というのはありえないという意味のようです。

世界全体を説明できる理論とか、世界全体を統括する絶対的な法則といったものは空想の産物であって、実際には存在しないということでもあります。

世界より宇宙の方が広いとか、宇宙は無限で、その中にすべては包括的に存在しているのかというと、そんなこともないとガブリエルは言います。

「世界平和」とか「世界チャンピオン」とかの「世界」は、しょせん地球上に住む人類にとっての世界ですから、地球を含む太陽系や銀河系をも含む宇宙は「世界」より広くて、無限なんじゃないかと考える人も少なくないでしょう。

しかし、ガブリエルによると、宇宙はあくまで物理的なものが存在する場であり、自然科学、特に物理学が対象とする領域でしかありません。

それ以外にも、メルヘンの世界とか政治の世界とか、いろんな世界、領域があるんだから、宇宙はそうしたたくさんある世界のひとつにすぎないというわけです。



科学を絶対化してしまった近代の誤り


「メルヘンとか政治は人間の脳が生みだしたもので、物体が実在しているというのとは違うんじゃないか?」と言う人もいるでしょう。

しかし、物体しか存在していないのだとしたら、人間が認識するものは人間の脳細胞のある作用とか状態だし、脳細胞を構成する分子とか原子とか素粒子とかの状態だし、もっと突き詰めるとそうした物体の粒子というのも存在せず、すべてはただエネルギーの場の状態に還元されるといったことになり、結局自然科学、物理学で研究していること以外は無価値、無意味になってしまいます。

そういう考え方こそ近代人・現代人が落ちた罠であり、だから人間は自信を失って科学に引きずられたり、虚無的になって絶望したり、難しいことから目をそらして,目先の楽しみだけ追いかけたりしながら生きているんじゃないか?

現実はそうではなく、人間が認識したものはすべて実在するし、宇宙を研究する物理学も、童話も、今自分が座っている部屋も、すべてそれぞれの領域で存在している。 

近代の人間が科学的・理性的・合理的なものに引きずられて落ちた、エアポケットのような穴から脱出するには、人間にとって意味を持って現れるものはすべて実在するし、そういう意味の場、世界はたくさん存在するということを認めるしかない。

そこから多様なものや考え方がもう一度活発に動き出し、人間の活動が活性化するんじゃないかというのが、マルクス・ガブリエルの提案です。

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