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三千世界への旅/アメリカ23




オリンピック景気と欧米化


東京の成城に住んだ1年間は、僕にとって急に世界が洋風になった時期でした。

それまで住んでいた大阪の堺や京都の右京区が、古い家が並ぶエリアで、住んでいた社宅も、戦災を免れた戦前の日本家屋だったのに対して、成城の家は小さかったが、西洋風のテラスハウスだったからかもしれません。大阪と京都の家のトイレが汲み取り式だったのに対して、成城の家は水洗でした。

小田急線の成城学園駅前には、「石井」という輸入食品を売る店があって、入ったことはありませんでしたが、店の前を通るたびに外国の空気が流れてくるような気がしました。ほかにも駅前には洋菓子店や雑貨店など、洋風の店がいくつもあって、クリスマスの飾りつけが西洋の街のように見えました。

1963年から64年は日本、特に東京がオリンピック景気にわいていた頃で、いわゆる高度成長が始まっていました。世の中が豊かになっていくというムードは子供にも感じられました。


土地と伝統


大阪や京都で住んだ地域も大きな屋敷が並んでいて、どちらかというと裕福な人たちが住むエリアでしたが、建物も人の暮らしにも日本・関西の伝統文化が残っていました。

大阪の堺で母は茶の湯を習い、父と三味線に合わせて歌う小唄を習っていました。堺は室町時代に茶の湯を広めた商人たち、特に千利休ゆかりの町だったし、大阪の元芸者で三味線や小唄を教える女性も多かったようです。

京都で住んだのは市街地のはずれで、お寺の門前町と郊外の農村地帯に、金持ちの屋敷が入り混じっているような地域でしたが、大阪とはまた違った意味で、何百年も時が止まったままでした。

市街地ではアメリカのミュージカル映画が上映され、テレビの音楽番組では、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりの三人娘が、アメリカンポップスを日本語で歌っていたし、プロレスと隔週で放映されていた『ディズニーランド』ではウォルト・ディズニーが司会進行でミッキーマウスのアニメを紹介し、『ララミー牧場』ではアメリカの西部の生活、『パパはなんでも知っている』ではアメリカの豊かな中産階級の日常を垣間見ることができましたが、それらは自分となんの関係もない別世界の出来事でした。




最初のアメ車と白人


ところが、成城に引っ越した途端、そうした欧米的なものが一気に身の回りに現れてきました。

関西では家の外でメンコやビー玉、コマ回しで遊んでいたのが、成城では友達の誕生パーティーに呼ばれたりするようになりました。友達の家の向かいは石原裕次郎の家で、たぶん近くの東宝撮影所からでかいアメ車のオープンカーで帰ってくるサングラスをかけた彼を見かけたりしました。

昭和30年代はオースチンやルノーなどヨーロッパの小型車がタクシーに使われていて、街でよく見かけていましたが、石原裕次郎のオープンカーはそうした小型車とはまったく違っていました。巨大で豪勢で、乗っている人間の富や力を表現しているように感じられました。

最初に白人を見たのも成城時代でした。

場所は池袋のローラースケート場で、初めてローラースケートをやる僕がへっぴり腰でヨタヨタしていると、背の高い金髪の青年がどこからともなく現れて僕の手をごく自然な感じで軽く握り、誘導しながら一緒に滑り出しました。

しばらく彼のリードで滑り続けた。もう大丈夫と判断したのか、青年はまた音もなく手を離して遠ざかり、視界から消えていきました。

彼のおかげでうまく滑れるようになったのかどうか覚えていませんが、それまで白人をテレビの中でしか見たことがなかったので、なんだか夢を見ているような気分でした。



ショランダーとヘイズ


成城に住んだのは1963年の夏から64年の夏までで、東京オリンピックが開催された10月には兵庫県西宮市にいたが、その後も僕にとっての欧米化の波は加速度的に押し寄せてきました。

オリンピックが始まると、毎日テレビにかじりついて、いろんな競技を見ました。僕は日本人が金メダルを取った男子体操とか女子バレーとか、重量挙げとか柔道よりも、水泳とか陸上競技の選手たちの動きに惹きつけられました。

中でも泳ぐたびに世界記録を更新して、合計4つの金メダルを獲得したドン・ショランダーは、聴き飽きるほど聴いたアメリカ国家と共に強く印象に残っています。

陸上の100mと4×100リレーで優勝したロバート・ヘイズは、黒人アスリートの強さやたくましさの象徴として記憶に刻まれました。


判断ミスと違和感


西宮は大阪と神戸の間にあるんですが、どちらかと言うと文化的には神戸寄りで、東京とはまた別の洋風文化が感じられる土地でした。その洋風は特にアメリカ的というのではなく、洋菓子のモロゾフはロシア菓子だったし、パンのドンクはフランスといったふうに、いろんな国の文化が入り混じっていました。

中学から神戸の私立校に入ったのは、特に神戸が好きだったからではありません。

その学校は中高一貫教育を行うイエズス会系カトリックの学校で、欧米人の神父たちがたくさん教師を務めていましたが、古いスパルタ教育を売りにしていて、制服は大日本帝国時代の海軍兵学校と同じ紺色に黒い蛇腹で、頭は丸坊主。

毎日2時間目と3時間目の間の休み時間に全校生徒が上半身裸の短パン一枚で校庭を走るとか、真冬でも短パン一枚の裸で便所掃除をするとか、少しでもたるんでると教師や上級生が判断すると、校庭を何十周も走らされたり、裸で廊下に正座させられたりしました。

授業も放課後のクラブ活動も威圧と古い規律と懲罰で支配されていて、何から何まで息苦しかった。

そんな学校にどうしてわざわざ受験して入ったのか、後から考えると不思議ですが、その後僕が人生で何度も繰り返したトンチンカンな思い違い、判断ミスの最初のケースだったと言えるかもしれません。




坂本龍馬


当時の自分を思い返してみると、小学校の5年から6年にかけて、本を読むようになっていた僕は、山岡荘八の『徳川家康』とか、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』なんかを読んでいて、なんとなく戦国武将や幕末の志士たちのような厳しい境遇に自分を置いてみたかったようです。

父と受けた面接で僕は尊敬する人物に坂本龍馬を挙げ、高い志と苦難を乗り越える意志の強さをアピールしました。もっと素直に自分の高慢さとか反抗的な性格を露呈していれば、ミスマッチな学校で不愉快な思いをせずにすんだかもしれないのに。

この学校を選んだのは、学力的にちょうどいいというのもありました。

大阪から神戸までのいわゆる阪神エリアには、卒業生が東大にたくさん行く灘高や、京大にたくさん行く甲陽学院がありましたが、僕の学力では難しかったのに対して、そのカトリック系の学校なら入れる可能性が高かったのです。

この学校は当時東大に行くのは1学年に1人いるかいないか、京大が数人といった程度で、特に受験勉強をしなくても入れそうでした。

当時まだ進学塾みたいなのはあまりなかったと記憶していますが、阪神地区には中学受験する子供が受けるYMCAや旺文社などが実施する模擬試験があって、自分がどのくらいの学力で、どこの学校なら入れるか知ることができました。



神父たち


このカトリック系の学校では、古い西洋と日本の文化が奇妙なかたちで融合していました。

1学年160人、中高6学年トータルでも1000人に満たないこぢんまりした学校に、何十人も神父やその見習いがいた。日本人の神父も何人かいたが、多くは白人でした。

カトリックは結婚禁止なので、彼らは学校に隣接した神父館や校舎の一部に住んで、修道僧のように暮らしながら、教師として授業やクラス・学年担任を受け持っていました。ほかに学校で使う椅子や机などを作ったり修理したりする神父とか、保健室担当の神父もいました。

校長はかなり年配のドイツ人で、ほかにもドイツ人らしい老人が数人いました。保健室担当の神父もその1人で、彼が医師免許を持っているのかどうかは不明でしたが、お気に入りの生徒を保健室に呼んで体に触るので、そうした美少年系の生徒からは嫌がられていました。

学校には礼拝堂があって、ミサが行われていました。カトリック信者の息子たちが1学年に10人くらいいて、彼らはミサに出ていたかもしれませんが、特にミサに出るのは義務ではありませんでした。

ミサとフォークソング


この学校では信者たちのミサのほかに、一般の生徒も参加するカトリック的な感じの行事があって、そこでミサの雰囲気に触れることができました。

ほかにたしか「公教要理」呼ばれる、カトリックの教えを説く小さなセミナーが放課後に開かれていて、一応自由参加ということになっていましたが、ほとんどの生徒が少なくとも一度は出席していました。

熱心に参加して、数年のうちにカトリックの洗礼を受ける生徒もいました。僕の学年では多分4人に1人くらいの割合で信者になったと思います。

学校行事の中で印象に残っているのは、神父たちがギターを弾きながら、フォークソングを歌ったことです。たしか生徒も一緒に歌ったと記憶しています。

曲目には『焦げよマイケル』みたいな、よく意味のわからない励ましの歌もありましたが、『We Shall Overcome』のような、公民権運動のテーマソング的なのも歌われました。

アメリカで公民権運動が盛り上がり、キング牧師が有名な「I Have A Dream」の演説をしたワシントン大行進が1963年ですから、保守的で慎重なカトリック教徒も、その頃までには人種差別反対の歌を歌うようになっていたのかもしれない。

その後、日本でもフォークブームが広がり、僕の学年でもフォークバンドを結成して、ピーター・ポール・アンド・マリーや日本のフォークバンドの歌を演奏して歌う連中が出てきました。

すでに、ボブ・ディランは1965年のフォークフェスティバルで、ブルース的・ロック的な大音響の演奏をして大ブーイングを浴び、その後のアメリカ・ヨーロッパツアーでも行く先々で激しくヤジられて、1966年にはライブ活動を無期限休止していましたが、僕はそんなことは知りませんでした。

学校行事ではエレキギターの演奏が禁止されていましたが、僕は次第にロックやブルースを聴くようになっていきました。


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