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三千世界への旅/アメリカ8

スペイン系・フランス系・先住民・奥西部・西海岸


ここまで見てきたアメリカ東部に広がったネーションのうち、ヤンキーダム、ミッドランド、タイドウォーター、ディープサウス、グレーターアパラチアが、18世紀末にイギリスから独立してアメリカ合衆国を建国した主な勢力です。

行政区域としては13の植民地が13のステート(州)になって初期のこの国を構成したわけですが、ステートの区分けに必ずしも当てはまらない、アイデンティティを持つこれらのネーションが、その後のアメリカという国のベースになっていったということのようです。

このほかにもウッダードはいくつものネーションを取り上げています。


スペイン系勢力「エル・ノルテ」


カリフォルニアからニューメキシコ、アリゾナ、テキサスに広がった勢力は、元々メキシコの領土をアメリカが19世紀の戦争で割譲することで手に入れた土地に住む人たちです。スペイン植民地の北部という意味で、ウッダードはこのネーションをスペイン語で北を意味する「エル・ノルテ」と呼んでいます。

その後メキシコその他の中米諸国からは、いわゆるヒスパニック系の移民が、合法・非合法を問わず大量にやってきて、アメリカで一大勢力を形成することになりますが、エル・ノルテの地域はまだメキシコがスペインから独立する前に、スペイン人によって先住民を征服・支配することで開拓された土地です。


フランス系勢力「ヌーヴェル・フランス」


フランス人もイギリスと競うように北米大陸に早くから植民地を築いています。その領域はカナダの東海岸から五大湖の北側、中西部のミシシッピ川流域を含んでメキシコ湾にまで達しています。

領土を巡ってフランスとイギリスは度々戦っていますが、その中で最も重要なのは、18世紀半ばに起きたフレンチ・インディアン戦争です。フランスとイギリスはそれぞれ先住民を味方につけて戦いました。フランスはプロシア(後のドイツ帝国に発展する国)などとの戦争のため、十分な軍事力を北米に回すことができず、敗北します。

ヨーロッパと北米の戦争で財政を悪化させたことが、フランス王朝の権威失墜を招き、後のフランス大革命につながったと見ることもできるので、その意味でこの戦争はヨーロッパの歴史に大きな意味を持っています。

一方、イギリスもこの戦争の戦費調達のため、北米植民地に印紙税や輸出品への課税を課し、これが植民地側の反発を招きました。

また彼らはイギリス側の兵力としてフランス側と戦ったことで自分たちのアイデンティティを強く意識するようになりました。これが後に独立戦争、独立革命へとつながっていきます。

転売された領土

この戦争でフランスの北米植民地、いわゆる「ヌーベル・フランス」のうち、北東部の一部とミシシッピ川の東側、いわゆるルイジアーヌ(後のルイジアナ州の名前の由来になった地域ですが、面積としてははるかに広大なエリアです)がイギリス側に割譲され、ミシシッピ川の西側がスペイン領になりました。

その後スペインはこの西部の領土を、不毛で開拓困難という理由でフランスに返してしまいます。そして19世紀にフランスはナポレオンの時代に同じ理由から、アメリカにタダ同然で譲ってしまいます。第三代アメリカ大統領トマス・ジェファーソンの時代です。

ウッダードによると、こうした領土割譲によって、フランス人の文化が色濃く残るヌーベル・フランスは、カナダの東海岸エリアと、ミシシッピ川河口のニューオリンズを中心としたエリアだけになっています。


北米先住民「ファースト・ネーション」


北米の先住民もウッダードは11のネーションのひとつに入れていますが、カナダ北東部の今でも未開拓な土地が彼らの領土で、アメリカ合衆国に彼らの領土はありません。白人植民勢力との戦いで19世紀に彼らは土地を追われ、狭い居留エリアに押し込められてしまったからです。


西部の奥地「ファー・ウエスト」


さらに、ウッダードはロッキー山脈の東西に広がる広大な地域を「ファー・ウエスト」、太平洋岸のカリフォルニアの北半分からオレゴン、ワシントン、カナダのブリティッシュコロンビアの沿岸部にかけての地域を「レフト・コースト」と呼んでいます。このふたつはヤンキーダムやミッドランドなどのように、開拓した人たちの出自や宗教がアイデンティティの基礎になっている訳ではないようです。

ファー・ウエストは東海岸のいろんなネーションから出て、西部開拓にチャレンジした雑多な人たちによって開かれましたが、その過酷な自然環境がこの土地の風土と人々の文化を新たに形成したと考えることができます。


西海岸「レフト・コースト」

レフト・コースト、いわゆるアメリカ西海岸はゴールドラッシュで無法者的な男たちが殺到して開拓されたというイメージがありますが、それは開拓時代の初期の話で、それに続いてかなり早くからヤンキーダムなど東海岸の知的な勢力が、事業や教育機関への投資や整備を行ったようです。東海岸よりも自由で先進的な文化が育ったのは、東海岸の中でもリベラルで進歩的な勢力が、西海岸に新しい理想郷を築こうとしたからかもしれません。

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