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灰色の空、灰色の壁、灰色の時間

「殺してやる」

法廷に男が現れたとき
母は血のにじむような
押し殺した声で言った

灰色のシャツを身につけた
細いと言うより貧弱な体躯
あの薄い手のひらが
酒瓶を握って
僕の父を殴り殺したのか

現実味を感じれないまま
奇妙な響きをもったひとたちの
声を聞きながら傍聴席を振り返る

やつれはてた中年の女
セーラー服姿の少女

どちらもいないことに
感じた焦燥の意味を
考える間もなく
あっけなく裁判は終わる

何回こんなことをくり返すのか

父より10歳も若いのに
父より老けて生気の抜けた
あの男の償いが
父の息を吹き返す訳でもなく

父の死を受け入れ
すでに慣れた僕の
隣の母は声を殺して
泣いている

どれだけ訪ねたか分からない
弁護士達も

ひとりを殺しても死刑になることはないのです

取り乱した母を
なだめるように言うだけだった

酒場での状況
あの男の現状

父の話でなかったら
被害者はあの男の方だ
とさえ思う、真実

ひとりを殺して死刑にならないなら

帰りのタクシーを待つ間
母が、くぐもった声で言う

私があの女も、娘も、殺してやる
あの男から帰る場所を奪ってやる

父を愛していた母

学生時代からずっと
父を追っていた母

酒好きの父の
うかつな夜をついて
僕を身ごもった母

かあさん

僕は母の肩を抱く

僕も、かあさんまでいなくなったら
もうどこにも帰る場所がなくなる

心のこもらない言葉に
気がつかないまま
人目も気にせず泣き出した
母をそっと抱き寄せる

父を愛してた母
父だけしか見ていなかった母

父に、一夜の相手が幾人も
いたことを今も知らない母

ハンカチで頬をふき
化粧のとれた顔をのぞき込み

もう少しタクシーが来るのは
時間がかかりそうだから
化粧を直してきたら、かあさん

僕の言葉に
子供のような素直さで
建物に滑り込んでいく

曇った空は
一筋の光も通さない
足元のタイルを見ていた
僕に声がかけられる

今日も傍聴に来られていたんですね

視線を向ける先には
夏服のグレーの襟の
セーラー服姿の少女がいた

その日

君は僕に
はじめて
話しかけた

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