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ここで会いましょう 第三話

 やっぱり気のせいじゃない。

 私が足を止めると、背後の音も止まる。私が進むと、こちらに近付いてくる。ぬたり、のたりという、ゴム底の足音とも、水棲生物の鰭が地面を打つ音ともつかない何かが、私の後を追っている。音の判別がつかないのは、さっきから降る大粒の雨と、凸凹のある道路脇のアスファルトを歩く自分の足音のせいだった。言葉が通じる相手かどうかは分からないが、気付かれないように歩みを少しずつ早めた。

 前方には小さなトンネルが見えてきた。黄色っぽい電灯が左右に一つずつしかない上、一つは切れかけなのか、時おり点滅している。周りの壁には蔦のような植物がもっさりと生えており、その葉がトンネルの入り口に深い影を作っていて、ますます闇を濃くしている。長さはほんの数メートルのようで、奥にはトンネルの外側が小さい黒い窓として見えている。トンネルの中にも一応照明があるらしく、近付くとぼんやりとオレンジ色になっているのが見えた。私はここで加速して、相手を振りきろうと思った。

 じゃりっ、ざっ、じゃりっ、ざっ

 はっ、はっ、はっ、はっ

 トンネルの中は舗装されていなかった。自分の足音と息遣いがこだまする。息の上がりかたで、自分が思った以上に緊張し、怖がっていたことが分かる。

 ひたり

 右肩に冷たく濡れた、重たいものが乗った。走ったのは無駄だったのか、逆効果だったのか。私は反射的に後ろを振り向いてしまう。

「わああああああああ!」


 シーツもタオルケットも、首の周りも汗でびしょびしょに濡れていた。またいつもの夢だ。毎晩、追いかけられる相手が分かる直前に、自分の叫び声で夢から覚める。もう何か月になるか分からない。

 私を追いかける、夢。

 枕元にあるデジタル時計の指し示す時間は2時38分。夜はまだ長い。


◇ ◇ ◇


「夢の記憶、ですか……」

「はい。とにかくこの夢がなければ、少しは安眠できると思うんです」

 センターに来る相談者は業務内容上、過去脛に傷を負ったり、奇妙な思い込みをしている人が少なくないが、今回樹が応対した人は取り分け変わった願いを持っていた。

「夢は二年間、毎晩見ているのです。最初はただ、追いかけられる夢でした。それが年々酷く……場面が進行してきているのです。私は毎晩追いかけられた相手に傷付けられ、刺され、最後には殺されるのです。」

「ふむ……。失礼ですが、傷付けられるというのは」

「ええ、お察しの通り、凌辱も含みます」

 自分の発した言葉に刺激されたのか、相談者の葵はさめざめと泣きはじめた。ハンカチで拭う目の下には日焼けと見まごうほどの固着した隈があり、目の光も、苦痛を浴び続けて縮こまった眉間も、本来なら若さの力だけで蝶よ花よと可愛がられる世代の女性とは思えなかった。

「場所はここ二年同じですが、殺され方は毎回少しずつ違います。首を絞められたり、喉を刺されたり……。私は毎晩耐えられない息苦しさや、血の味のする息の中で目覚めるのです。そして一旦起きた後は、大抵うつらうつらとしか眠れません」

「不眠外来などには行かれましたか?」

「……はい。このままではいけないと思い、軽い睡眠薬や抗不安薬を処方してもらいました。でも、ダメでした。一度は良くなって、薬を減らしていたのですが、減らすとまた夢を見るんです。副作用で頭がぼんやりしているような時にも、その夢の手触りがやってくると、一日仕事が手に付かなくて」

 葵はうなだれ、隣に座っている母親はそっと肩をなでた。相談者の家族が付き添いにやって来ることも、本人が未成年者でない限りあまりないことだった。

「夢を見る原理は今世紀に入ってもまだ解明されていません。脳の情報処理の為に夢を見るということは分かっていても、なぜそういう内容の夢を見る必要があったのか、夢の内容と脳の情報処理がどのように関係しているのかはよく分からないのです。夢の記憶だけを消しても、根本の原因をなんとかしないことには、シチュエーションは多少違えど、別の悪夢を見る可能性は否定できません」

「樹さん、私からもお願いします」

 口を挟んだのは葵の母、佑布だった。

「とにかく、目先だけでもいい、葵には楽になってもらいたいのです。悪夢だけが彼女を苦しめているのです。葵は国家資格を取って念願の職についたばかりで、ここで歩みを止めさせてしまうのは忍びないのです」

 樹と、カウンセラーの鵜飼とは顔を見合わせた。相談者二人ががんとして譲らないので、一度上層部に掛け合って、夢だけを消した場合、脳の機能に影響が発生し得るか検証してみるということになった。もちろん、樹と鵜飼の二人は上層部がクリアな解答を持っていないことは知っている。ほんの数日で出せる解答でもないことも。リスクを承知でこの仕事を受けるかどうかという、政治的な判断をするのに、日数が必要であるだけだ。そしてそれは、葵を半ば人体実験の道具にすることを、なるべくセンターの責任を回避する形で、本人に了解させるにはどうすればいいかの筋道を作る時間でもあった。

 結局、葵と佑布はセンターの提示した条件を殆ど飲み、夢の記憶を消すことに同意した。揉めたのは費用面だけだった。「私/娘が研究対象になるのなら、そして再発がありうるのなら、正規の値段なのはどうか」というわけだった。センター側はしぶしぶ言い分を聞いて異例の値引きに応じたが、処置後、必ず定期的なカウンセリングを有償で受けることを約束させた。

 一か月後、初めてのカウンセリングで葵は上機嫌だった。

「あれからずっと夢は見ていません。毎日ぐっすり眠れています。本当に記憶を消して良かった」

 本人が言う通り、死神もかくやといった目の下の隈は消え、うす茶色い瞳は照明を落としたカウンセリングルームでもきらきらと輝いていた。元々目鼻立ちが整っている方ではあったが、長年の悩みが解消されたことで、陰っていた魅力がぐっと引き出されているようだった。葵には結婚を前提に交際している恋人がいるということだったが、その恋人は彼女の変貌を嬉しがるより、むしろ他の異性に取られやしないかと不安になるのではないか。そんな無粋な想像をしてしまうほど、ハッとさせるものがそこにあった。それは自分の人生を目いっぱい生きているという確信と喜びに裏打ちされた美しさだった。樹は葵に気付かれない程度に、ふっと目を細めたが、これで終わりになるとは考えていなかった。

 葵が別の悪夢に悩ませられるようになったのは、案外早かった。

「今度は川なんです」

 前回とは舞台が違うだけで、「追いかけられること」と「最終的に殺されること」は前の夢とほとんど一緒ということだった。しかも二年かけて進行していった前回とは違い、最初から殺される夢だったという。葵自身は、再発したことは不幸だが、ある程度覚悟していたと言った。

「あの時は母の手前、強く言えませんでしたが」

 毎晩の溺死の記憶は彼女を急速に憔悴させていて、食欲を失った彼女は頬がこけ、肌が黄ばんだせいで化粧とのミスマッチが目立った。輝く表情を見ていた分、今の彼女は前回以上に痛々しかった。


「なんだか妙なことになりましたねえ」

 樹の独り言に、通りがかった鵜飼が反応した。

「樹さん、探偵をやっているようなものですもんねえ」

 ――本人が思い出せない記憶は消せない――これは現時点における技術の限界であり、センターが依頼を受ける際に説明する項目のうちの一つだった。この項目があればこそ、センターは葵の依頼を断ろうとしたのだ。葵にはなぜ悪夢を見るのか、その原因となる記憶にまるで心当たりがなかった。葵の再発はこの項目が正しいことを証明したようなものだった。

 しかし一旦引き受けたものを、簡単に手放す訳にはいかなかった。鵜飼は月一回のカウンセリングを二週に一回に増やし、自分の経験を少しずつ引き出す取り組みを続けていた。同時に樹に対して、葵の学生時代の足跡を追うよう、上層部から命が下ったのだった。

「これも『研究』の一環なんですかねえ」

 普段仕事に対して特段感想を述べない樹が、パートナーの鵜飼に対してということではあるにせよ、定期的にぼやくようになっていた……。


 状況ははかばかしくなかった。

「向田葵さん? 久しぶりに名前を聞いたわ」

 フチなし眼鏡の奥の目を細めたのは、葵の中学校時代の担任、及川だった。二年前に教職を退いた後も、地域の学習支援事業に携わっているということは事前に調べてあった。なるほど、白髪にパーマをかけ、襟のついたシャツを着た姿から醸し出される空気は、ほとんど現役の教師然としている。

「どんな生徒さんだったか、お聞かせ願えますでしょうか」

「そうねえ。向田さんはクラスの中心人物という訳ではなかったけれど、どちらかというと活発な子達と仲良くしていました。勉強もできたけれど運動もそこそこできて、なんでもそつなくこなす子だったわ」

 及川は葵の思い出話をあれこれしてくれたが、どれも他愛のない話だった。クラス内でいじめがなかったかについても訊いてみたが、彼女の目の届く範囲ではそのようなことはなかったということだった。

(やっと3学年、あとこれを9回か……)こざっぱりと刈られた樹の白髪を、真夏の太陽が射るように照らした。


 いじめもない、学業の挫折もない、部活や友人、恋人とのトラブルもない。葵の語る半生にも、トンネルや川での思い出、誰かに傷付けられた記憶など、手がかりとなりそうなものは出てこない。完全に八方塞がりだった。

「困りましたね」

「ええ、本当に困りました」

 樹と鵜飼はミーティングルームでため息をつきあった。今日は別の依頼者について打ち合わせをする予定だったのだが、話は自然と懸案事項に向かってしまう。

「私の気の回しすぎかもしれないのですが」

 鵜飼が口を開いた。

「どんなことでも気になることがあるなら、どうぞ」

「葵さんの殺され方なんですけどね。前の夢も今の夢も、首を刺されるとか、呼吸を止められるとか、『息苦しい』という点で共通しているんですよね」

「ほう」

「それで、物理的な息苦しさを軽減したら、夢での苦しさが減るだろうと思って、今鼻呼吸テープを貼ってもらっているんです」

  夢での体験と、彼女が頭の中に仕舞いこんでいる記憶が一致すると考えるのは、安易かもしれませんが、と自分の発言を恥じるかのように鵜飼は小さくなった。

「いえ、いいんですよ。……仕方ない、クラスメイトにあたってみますかねえ……」樹は首を左右に動かし、溜まった凝りを取るような動作をした。

 

 とはいえ、小・中・高合わせて12年間のクラスメイト全員を相手にするのは、いかにも大仰すぎた。樹は仲の良かった生徒をアルバムから選んでもらうことにし、集中的にインタビューすることにした。その上で、鵜飼にある調査を依頼した。

「葵、何かトラブルを起こしてるんですよね? 私が言ったって分からないようにしてくれるなら、お話しします」

 樹の告げた連絡先にわざわざアクセスしてきたのは、オンライン面談では「うちのクラスにはいじめも学級崩壊もなかった」とにこやかに語っていた中学時代のクラスメイトだった。

 樹はどきりとした。守秘義務上、あくまで「葵の交友関係」について質問するようにしていたのだから。

「あ、樹さんの質問の仕方でピンと来たとか、そういうことはないですから安心してください」今は企業の法務部に勤めているという彼女は、樹の動揺を察知して言った。

「いつかそういうこと……交遊関係のトラブルを起こしそうだなって思ってたんです。葵って、明るくていい子ですよね。でもとらえどころのないところがあって。友達同士でふざけている時も、目が笑っていないとか、そんな風で。どこか遊びに行こうという話になるとき、大抵葵のやりたい事に決まるんです。彼女にはそういう妙な圧がありました。表向きすごくいい子だから、それに気付いてない子もいただろうし、そう思う自分の方がおかしいって思う子もいたはずです。葵が直接誰かを傷付けていたかどうかは知らないんですけど、誰にも分からないやり方で、そういうことをすることができる子かもしれないとは思うんです」

「ふむ……そのお話、非常に参考になりました」

「あくまで私の憶測なので、インタビューのときは話せなかったんです。ただ、ああいう子が相手なので、きっと調査が難航されているのだろうと思って」

 樹が観察する葵像と、オンライン対話の相手のそれとは符合する点が多かった。しかし、これはまだ蜘蛛の糸ほどの手かがりに過ぎない。もっと証拠が必要だった。


「うちのクラスに、学期途中で転校していった子が居たことを思い出したんです。その子と向田さんがどれだけ仲が良かったかは覚えていないんですけど、何かあったとしたら、その子とかもしれないと思って」

 及川との二回目の面談で出たこの発言は、鵜飼に依頼していた調査結果を裏付けることになった。ようやく真相らしきものを得られた樹と鵜飼だったが、二人の心は鉛のように重かった。


 久しぶりに母娘揃っての面談となった。

「結論から申し上げます。葵さん、あなたは村井由香さんという方を覚えておられませんか?」

「むらい……ゆか? いいえ、覚えていません」

「中学三年の時に同じクラスだった女性です。たった三か月ほどでしたが」

「……転校生だったということですか? いえ、本当に全然……」

 やはり、という顔をして樹は寂しげに頷いた。

「確証は得られませんが、どうやら葵さん、あなたは村井由香さんをいじめていたようなのです。そのことが原因で、村井さんは転校されたということです」

「えっ」

「そんな馬鹿な! 中学三年と言えば、受験で大事な時期じゃないですか。それに確証がないってどういう……」佑布は怒りから、すでに顔が赤らんでいる。

「村井由香さんがすでに亡くなっているからです。転校後、しばらくは問題なく通っていたそうですが……自殺されたということでした」

「いじめを苦に自殺したら、報道されたり調査されたりするものではないんですかっ!?」

「転校から自殺までは一年以上間が空いたそうなので……。それに由香さんは最後まで、いじめられた相手の名前を話されなかったそうです。ノートなどにも名前は残っていないということでした」

「じゃあ、葵がやった証拠もないってことじゃないですか!」

 青ざめて俯く葵に反比例するかのように、佑布は樹の胸元を掴みかからんばかりの勢いで反発した。

「ですから、葵さんに名前をお伝えして、心当たりがないかと」

「……私、やっぱり思い出せません」

 葵は唇が真っ青になっていた。

「……ってことは、私はずっとこの夢と一緒に生きていかなくちゃいけないんですね?」

「……そういうことになります。仮説どおり、由香さんのことが深層心理に影響していればの話ですが。もちろん、年を追うごとに薄れてきたり、夢の内容に変化が生まれる可能性が全くないとは言いきれません」

「その村井さんって方のお宅はどちらにあるの?」

 佑布は村井宅に乗り込んで文句でも言いに行きかねない勢いだった。

「ですからこれが調査できた限界で、私達も村井さんのご両親も確証があるわけでは」

「やめてお母さん!」

 樹と佑布の取っ組み合いにならんばかりの言い合いを制したのは葵だった。普段ならきちんと横に撫でつけた樹の前髪ははらりと頬に垂れ、蝶ネクタイは片方の金具が外れていた。

「もういいんです……。樹さん、お手数をお掛けしました」


◇ ◇ ◇


「いじめた側は、いじめた記憶を覚えていないもんだ、なんて言いますけど、あんな風にまるっきり記憶が抜けることなんてあるんですかね」

 鵜飼がぽつりと言った。センターの玄関は細長い板状の屋根が大きな庇を作る、モダンな構造になっている。一歩足を踏み出せば身を焼く暑さに襲われるはずだが、この屋根と、センターをぐるりと囲んでいる水路のお陰で幾分涼しい。

「どうですかねえ。村井さんの方でも、あれがいじめだったのか、考えすぎだったのか分からなかったのかもしれません。もちろん葵さんが無意識に人を攻撃していた可能性はありますが」

「葵さんが実際いじめた証拠は出てきませんでしたものね」

「そうです。我々の仕事はこれでお終いです」

「後味が悪いですけどね……。彼女、これからどうするんですかね」

「さて……。思い出す努力をするのも手だと思いますが、難しいでしょうね」

 職務上当然線引きはしていたものの、葵と長く接するうちに情が湧いていたらしい鵜飼は、悲しそうに草原の方を見やった。確固たるいじめの証拠が出てこなかったことも、鵜飼を非難よりは同情の方に向かわせているらしい。

「生きている限りは、少しでも苦しみから解放されればいいんですけど」

「人は案外、簡単に死ねませんからね。……私の経験上ね」

 太陽は地平線に沈むのを抵抗するかのように、強い光を発していた。加齢によってやや青みを帯びた樹の瞳は、その光を浴びてレモン色にきらめいている。センターの西側に広がる芝生の丘は一面眩しい金色だった。帰路につく母娘の長い影が、その輝く平原を深く分断していた。

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