遺失物係
「落としましたよ」
アメ横通りを歩く私の肩をとんとんと叩いた人がいた。振り向くと、夏なのに黒いスーツに黒いネクタイをしめた、一見少年のように見える男の人が立っていた。
「はい、これ」
それはねじだった。長さ三センチくらいで、頭に十字の穴が開いている、なんてことないねじだ。でもそんなねじ、心当たりはまるでない。
肩にかけているビジネスバッグには大事な資料が入っていて、私はいつもより過敏だった。早足で通りを抜けた。追いかけてくるものと思っていたけれど、すぐに諦めたと見え、後ろから足音はしなかった。
その日はカブのシチューを作って一人で食べた。本当はベーコンを入れたかったのにうっかり買い忘れたので、仕方なくハムを入れた。ハム入りのシチューは優しい味で美味しかった。
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休日、友人と美術館に行った。美術館に入る行列に並んでいる方が長いくらいだったけれど、自粛ムードでなかなか会えなかった二人だ。話をしているうちに時間はあっという間に過ぎた。
美術館近くの喫茶店で、マンゴーと生クリームがたっぷり盛られたガレットを食べようとした時、私たちの座るオープンテラス席の下にあの青年が立っているのに気付いた。
「今日も落としてましたよ」
彼の手の中には、こないだのねじの他に、長さ五センチくらいのちょっと太いねじが載っていた。
「涼子、だれ」
友人の声が浮き立っている。こないだはよく見ていなかったけれど、青年は目鼻が整っていて、彼女が常々好きだと言っていた俳優そっくりだったから。
「知らない人」
私が彼に応じないでいるので、友人は遠慮して、それでもどうにも惜しいという様子でちらちら彼のいる方を見ていた。「行っちゃったよ、いいの」と言われたけれど、説明するのも面倒で黙っていた。
そのまま友人を家に呼んで、ビールを飲みながらタイ料理を二人で作った。途中フライパンを触ってしまって、左手の薬指に小さな水疱が出来た。ミュージアムショップで買ったはずのキーホルダーが鞄のどこにもなかった。
「イケメンに冷たくするから」友人は自業自得だとつめたく笑った。
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頼まれていた備品の発注を忘れた。お客様とのアポイントの時間を三十分間違えた。低気圧の日はいつも調子が悪いけれど、これほどだろうか。「今日は早く帰りなさいよ」と上司は言ったけれど、今日やらなければ明日の私がやるだけなので、少しだけ残業した。駅から一人暮らしのアパートに向かう道は静かな住宅街で、街灯はまばらにしかないから、場所によっては結構暗い。
「お待ちしてましたよ」
あの青年だった。私のアパートはこの角を曲がった先だ。さすがに三度目となると恐怖を感じた。
「こんなところにまでつけて来るなんて、どういうつもりですか」
「だから、落とし物を」
「ねじに心当たりなんてないですったら。警察呼びますよ」
でたらめに歩いて彼をまこう。踵をかわした私より早く、彼は元来た方向に回り込んだ。
じゃらっ
ねじは両手いっぱいになっていた。大きなの、小さいの、太いの、細いの、ねじの頭の形や、ねじ山のピッチも様々だった。
「これ全部、あなたのなんですよ?」
「……よく分からないことを……」
「あなたは物わかりが悪いですね。ほら見てください」
青年は私の左の手首をつかんで、胸の高さまでに引き上げた。小指の根元をもう一方の手でつかんでくるりとひねった。指はなんの抵抗もなく取れ、闇に沈むアスファルトに音もなく落ちた。
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気が付くと薄暗い店の中にいた。洋画に出てくる古い本屋のような、あるいは昔の日本の駄菓子屋のようなといったら伝わるだろうか。三方の壁いっぱいに木で作られた引き出しや段ボール箱などがあり、そのいくつかは品物が入りきらずに半分開いたままになっている。
「調子はどう? あなたがのびてる間に、ねじは締めておいたんだけど」
はっとして左手を見ると、さっき道で取れた小指は元の場所についていた。痛みもないし、ちゃんと動く。
「ここは……」
ありがとうといえばいいのか、さっきのあれはなんだったのかといえばいいのか分からない。
「遺失物係だよ」
電車が通過するごおおおという音が頭上に響いた。どうやらどこかの線の高架下らしい。でも、ここが駅舎の一部だとは全く思えない。戸棚と戸棚の間から黒と白のぶち猫がにゅるりと出てきて、番台のように一段高くなったところに座っている、青年の膝におさまった。
「まあ初回はそんな反応だよね」
「この傘も、私のねじと同じモノなんですか」
「ああ、これは後でJRに届けるやつ。僕たちは失せもの全般を扱ってるからね」
青年は番台の横にある小さな冷蔵庫から牛乳を出して、うすい皿に注いだ。猫が待ってましたと皿に近寄り、ぴちゃぺちゃと舐めはじめる。
「あなたはきっと素直な人でしょう。生活にそんなに屈託もなくて、そんな自分のことをつまんないな、と思っている」
おそらく十歳は若い相手にそんなことを言われたので、私は思わずムッとする。当たっていたからだ。
「そんなに怒らないで。落とし物の形は、その人に依存するんだよ」
「え」
「こないだのお客さんは有名なシナリオライターさんだったけど、その人、活字を落っことしてたんだよ。恐ろしい量でね、体に戻すのが大変だったよ、本人がえずいちゃって」
猫がシャーッと唸り声をあげた。鼻に幾重にも皺を寄せ、青年に掴みかからんばかりに毛を逆立てている。
「ああ、守秘義務ね。僕たちの仕事までそんなのが入り込んでくるとはね。まあいいじゃない。この人にちゃんと納得してもらって、お代を払ってもらわないといけないんだし」
「お代って……」
私は咄嗟に周囲を確認したが、財布が入っていたバッグや買い物袋はどこにもなかった。何を要求されるのだろう。身をこわばらせると、青年は少し淋しそうな顔をした。
「頼んでないって顔つきだね。でもあのままだったら、あなたは壊れきっていたよ」
「私、壊れてなんか……」
「たまに自分から壊れていく人がいるんだけど、あなたは違うよね? 僕はあなたを直すべきだと思ったし、現にちゃんと直った。大丈夫、法外なことは要求しないから」
青年は番台から身を乗り出すと、思いのほか大きな手で私の頬を包み、深く口づけをした。
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私は自分のアパートで寝転がっていた。電気が付いていたし、買い物袋の中身は空になっていて、キュウリは野菜室の茄子の隣、牛乳は倒して棚の二段目にきちんと収まっていた。家に着いたなり、疲れて眠り込んで変な夢でも見ていたのだろうか。
コンロの上には、鶏肉とオリーブのトマト煮込みの入った鍋が湯気を立てていた。ソースをひと舐めすると、程よく効いたにんにくとハーブの香り、トマトの濃厚な旨味が広がった。別れた彼とよく行ったあの店の味にそっくりだ。私はこれまでこんな風に再現できた試しがない。
リビングに戻ると、テーブルの上に名刺大の紙切れが一枚置いてあった。
遺失物係 いつでも用命承ります
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紙の隅には「あなたは少し脆いようだから、無理しないで生きて。たまにねじを締め直しにおいで」と走り書きがあった。
※エブリスタの妄想コンテスト「落としもの」に参加しています。
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