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考えることは大変

 働いていた頃は、PowerPointで資料を作る時、「一枚には最大3メッセージだ」とか「結論から言え」とか「ファクトだ」とか口酸っぱく言われた。

 そういうの、本質的には合わなかったけれど、仕事だし、型にはめて考える訓練も今思えば楽しかったと思う。

 だけど、そのせいで、いざ「やっぱり創作したい」ってなった時に、つまらない文章しか書けなくなっていた。


 そこから少しずつ、説明しないこと、言葉を間引きすることを覚えた。「結論だけ言え」というのは不思議なことに残った。登場人物の行動や思考の過程をすっ飛ばして、こう行動した、これを見た、こう感じたと書くのは有効だったから。

 それでもまだ足りない。私は長年苦手としてきた、詩や短歌の世界に手を出した。

 いい年なのに、未開の地がまだ残っていることは僥倖だった。三十一文字で、あるいはもう少し多い言葉で、自分の言いたいことを余すことなく伝える為に、研ぎ澄まされた言語感覚がそこにあり、単語と単語の組み合わせだけで心臓を突きにくる凄味があった。

 文字数は少ないのに、情報量が多い。私は知らないうちに、ひどく疲れてしまったらしい。

 この本に、詩とは「一見無関係な言葉同士が別次元で響き合う」性質を持つとあった。そして、その意外性を最大化するには、生と死を対比させるのが良い、と。

竊盗金魚
強盗喇叭
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
瀆職天鵞絨
姦淫林檎
傷害雲雀
殺人ちゆりつぷ
堕胎陰影
騒擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすていら。
「囈語」山村暮鳥

 詩というものは、生きるための言葉であって、生き延びるための言葉ではない。生き延びるための言葉は、他の人にちゃんと意味が伝わるために、死んでいなくてはならない。新聞記者が、自分の思いついたオノマトペを社説で披露する訳にはいかないように。

 生き延びるための言葉を使っている人たち(私もその一人だっただろう)が、生きるための言葉に触れると、死の匂いを嗅がされたように思ってびっくりするのではないか、と。

 この本、詩人が、どのように言葉と向き合っているのかということを知るヒントが沢山あって、とても良かったのだけれど、普段使っていないところの頭を使っている気持ちになるし、また、「これって結局は言葉遊びに過ぎないのでは」とか「Aの見方とBの見方、どちらも違うかもしれないのに。詩人の主観からは逃れられないじゃないか」とか、「こんな、しち面倒くさいことを考えてる暇があったら、鬼滅塗り絵の一枚でも余分に印刷する方が『正しい』のでは」とか考えてしまって、なんだか変な具合になったのだった。それは、私に少しだけそういう言葉に対する受容体があった、または育った結果かもしれないけれど。

 詩人の人達はこういうことを日がな一日考えて過ごしているのだろうか。それで狂っていないのだから凄いと思う。

 物語には、作者にもよく分からないものが入り込まないといい物語ではないという話を別の本で読んで、なるほどその通りだと思って取り入れ始めた詩の世界だったのだけれど、いきなりオーバードーズするような読み方をしてはいけないのだろうなと思ったり。

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