エッセイは自分のことばかり話しているのか
エッセイってなんのために書くのだろうか。そして、どんな意味があるんだろうか。
自分のエッセイに意味を見出せない時期が定期的にやってくる。なんだか、自分、自分、自分って叫んでいるばかりだと思うからだ。
noteの他の人のエッセイを読むと、その人のことを書いているはずなのに、そうではないように思えるものが多い。もちろん、他人の文章だからそう思えるだけかもしれない。でも、時には自分臭強めの記事に会うこともある。その違いはどこにあるのか。
わたしが「この人は自分のことばかり書いているなあ」と思わない記事の特徴をあげてみる。
・その人のことを書いているようでいて、自分にあてはまる点もある
・自分にあてはまる点はないが、興味深く読める
「目玉焼きにはケチャップですよね」って誰かが書いているとして、自分がケチャップ派だったり、あるいはたまにはケチャップをかけることがあるなら、うんうんって納得して読める。
一方、ケチャップ派じゃなくても、目玉焼きケチャップかけがどれだけ素晴らしく美味しいのかを語ってくれていたら、私がしょうゆ派だったり、なんなら目玉焼きは好きじゃなくても、興味を抱いて読むかもしれない。
後者は、文章が上手いということなんだろうけれど、その文章のうまさというのを、もっとちゃんと分解してみる必要がある。
ただ「目玉焼きにはケチャップなんだよお!」と主張しているだけでは、私は「へー。お前の中ではそうなんだろうな」と思って途中で読むのをやめるかもしれない。その主張がライムを刻んでいたらかっこいいと思うとかあるかもしれないけど、内容に感心しなかったら、そこまで読むかどうか。
「目玉焼きにはケチャップである」というその人なりの理由がわかりやすく説明されていると、その意見に同意しなくても面白く読める。なぜケチャップをかけるに至ったかの経緯なんかも説明されているとより説得力があると思う。そういうことなのかも。
逆に、自分臭いと感じるのは、筆者のブラックボックスからほんの少しのほのめかししか提示されてない場合なのではないか。筆者は書いていて気持ちいいのかもしれないが、筆者にとって当たり前のことや、不都合なことが隠されているので、理由が分からないし思考が飛躍していて読みにくい。筆者の内輪受けで盛り上がっているので、読者は入っていけない。この人には自分は要らないなとかんじさせるだろう。
説明が欲しい、理由が欲しいというのは、わたしの文章の読み方であって、世間一般の人がそうではないのかもしれない。
それに、説明をしたところで、「この文章、自分、自分、自分だなあ」と思うのはやめられないというか、おのれのことをむしろ色濃く言っているだけではと思うかもしれない。しかし少なくとも、自分の中の思考整理にはなって、すっきりするかもしれないなと思う。
って、別に私はエッセイ巧者になりたいわけじゃないのだけど、エッセイを書いて嫌な気分になるのは避けたいから、それを回避するにはこういうことを意識したらいいのかなと思った。
ちなみに創作もこういうことが言えるかなあ。たぶんちょっと違うよねとは思う。
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