書評 春にして君を離れ
今村夏子の「むらさきのスカートの女」を読んだ時、この物語についてどう思えばいいか分からなくて、Amazonのレビューを読んだ。
「むらさきの」は著者が語り手にかけた仕掛けが目立ってくるにつれて、安っぽさを感じた。まだエンタメ小説の方が、人々の生活の実態に即した心情を描き出しているのではないか。所収されている「ピクニック」も現実味がなかった。「こちらあみ子」がとても良かっただけに、少し拍子抜けした。
レビューに「春にして君を離れ」を読んでみよ、というものがあった。小説というものは、読んだ後で少しでも人生の見方や、世界が変わるような経験を提供するものであり、それが読む楽しみだということが書いてあった。
感想。
怖い。めっちゃ怖かった。
「むらさきの」は、現実味のない他人事として読めたから、不快だけど怖くはなかったが、こっちはそこまで変な人が出てくる訳でもないのにひたすらに怖かった。
アガサクリスティーはミステリー小説を書く人という認識だけがあって、私はミステリーがどうにも苦手だから、この人の小説も未読だった。この話は誰かが死ぬわけでも、犯罪に巻き込まれるわけでもないのに、ミステリーだった。
まあまあ恵まれた境遇であるジョーン・スカダモア。バグダットに住む娘の病気見舞いを終えてイギリスに帰る途中、旧友と会ったことをきっかけに、これまでの人生について疑問を抱き始める。ジョーンが順風満帆だと思っていた彼女の人生は、実はそうではなかったのではないか、ただ彼女は不都合な側面を見ないようにしていただけだったのではないか。彼女の年相応でない美貌の意味。
自分自身が他者にどう見えているのかということを、正確に理解している人はおそらくいないだろう。ジョーンは思いかけず手にした自由時間で、これまで見ないふりをしていたことに気付いたわけだけれど、私も、自分の人生について何も分かっていないという感覚は常にある。決してジョーンのことを笑っていられない。
ジョーンの家族はジョーンに比べ自覚のある人間のように描かれている。しかし、ジョーンに真実を見させないようにしたという意味では同罪であり、似た者同士なのだ。ジョーンの人生はジョーンが引き受けるべきものだが、ジョーンの人生をこのようにした責任の一端は家族にもある。そして、勇敢にも自分の人生の責任を引き受けたとしても、そんなことに関係なく人は死ぬ。そういう意味ではジョーンも、ジョーンとは対比的に描かれる作中の人物も皆同じ。人は誰しも一人ぼっちなのだ。
人生の深淵を覗かせるような作品は、面白いけど怖い。ただ作品を彼我のものとして楽しめるならいいのだが、自分のことを省みて大ダメージを食らうことも多い。私がジョーンっぽかったとしても、生きていくしかない。そういう意味で、ジョーンの選んだ結末は納得がいく。彼女が自分を見つけかけたのが旅先だというのも、伏線なのだろう。
しかし、この作品のレビューを読んだら、発達障害まがいの気持ち悪い人の思考を見せられただけ、という感想があった。それは「むらさきの」でも言葉は違えどちらほらあった感想で、私はそれを読んで怖くなった。世の中の人の解像度がそんなに低いのかと戦慄したというのもあるが、世の中のまともな人はジョーンのことをまるきり別世界の人間だという感想を抱くものなのか(つまり私はまともではないのか)と思ったからだ。それとも、ジョーンのことを全く別物だと切り捨ててしまえるこの人は、もしかしたら、第二、第三のジョーン・スカダモアなのかも……(本人に自覚がなさそうだからますますジョーンっぽい)。
一方、「ジョーンがいなかったらこの家族は路頭に迷っていた。子育てをしていた主婦をこんなに貶めなくても」という意見もあって、確かにそれも一理あると思った。人は、安価で当たり前に受け取れるものに価値を見出だしにくい存在であり、ジョーンの気遣いはまさにそれだった(たとえ、その気遣いがいささか的外れなものだったとしても)。ジョーンがいなければ、他の家族は対比する存在がないから、自分を理解することも出来なかったはずだ。
「むらさきの」は対比構造がはっきりしていて、物語の最後で比較的「◯◯がよくない」と言ってしまいやすかった。「春にして」は登場人物が皆白黒つけているようで実はついていないので、恐ろしさの底が深い。しかしこういう話を現代の(日本)人は、なんなら芥川賞選考委員も、求めていないのではないかとも思う。恐ろしい。
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