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ここで会いましょう 第二話

 貴史がマンションの重たいドアを、重さ以上に億劫な気持ちで開けると、部屋の中から妻と三歳の息子、貴文の朗らかな声が聞こえてきた。

「おかえりなさい。早かったわね」

 普段なら無言か、「中途半端な時間に帰ってきて」と小さく悪態をつかれるかだったので貴史は面食らった。促されてついた食卓には好物の煮込みハンバーグにポテトサラダ、冷奴にほうれん草のごま合え、わかめの味噌汁が並んでいた。

「さ、早く食べて食べて」

 なんだか調子が狂う。かえでの料理の腕はかなり良い。だから今日のおかずも、昨日までと同じく美味しいはずなのだが、逆に味がわからない。この時間は風呂を嫌がって走り回る貴文を、かえでが怒号を振り回しながら追いかけるのがお決まりの光景だったが、二人はまだプラレールで遊んでいる。

「なんかあったの?」

 貴史が意を決してかえでに訊ねてみたのは四日後だった。あの一日だけならまあそういう日もあるかという程度だったが、さすがに三日連続で新婚時のような応対を受けると、見過ごすことができないように思ったのだ。もしかしたら宝くじが当たったのか。あるいは離婚の決意を固めたのか。しかしかえでの答えは意外なものだった。

「私ね、三年分の記憶を消したの。貴文を産んでからの三年分」


◇ ◇ ◇


「はい、確かにあなたの奥様、竹越かえで様は、一か月前に当施設で記憶を消去しております」

「そんな……」

「記憶を消すのに、原則として家族の同意は不要ですから。私たちが処置をする際に必要なのは、ご本人の意志と、処置後に反作用が起きる可能性についての諸検査、しかるべき費用のみです」

 貴史を応対したコンシェルジュ、樹は目の前の男を平板な目で見つめた。貴史は近しい人が自らの意思で記憶をーしかも自分に関わる記憶をー消したという事実を、受け止めること自体が困難な様子だったが、樹はこういう顔を見るのはもう慣れっこだった。

 この施設で働くコンシェルジュには、心理士資格を持っている者が十数名いる。施術前のカウンセリングを担当する職員以外は、クライアントやクライアントの家族に積極的に介入することは許されていなかった。ただ、規則通りに応対をするにも、心理学的バックグラウンドがある方がよいというのが、職員の間に暗黙の了解としてあった。

 なので、樹も貴史に言葉をかけることはしない。

「それで、今日はどのようなご用向きでいらっしゃったのでしょうか」

「は?」

「奥様が記憶をなくされたことで、実際の生活に不都合がありましたでしょうか」

 貴史は目尻のあたりを赤く染め、樹がひとつまみでも気に障ることを言えば、殴りかからないとも限らない剣呑な気を放っていたが、虚をつかれて逆立たせていた毛を納めた。一旦落ち着こうと判断したらしく、氷が溶けて縁の方が透明になったアイスコーヒーをぐいっとあおった。

「特に問題は……」

 樹はそうでしょう、と軽く頷いた。そう、かえでが記憶をこの施設に預けてからというもの、問題どころか、貴史にとってはいいことずくめだった。「あなたはいつもそうなんだから」「何度も言ってるわよね」というかえでの口癖は激減した。このところ丼と吸い物など、明らかに品数の減っていた夕食が充実した。そして産後から拒否され続けていた夜の生活も、かえでの方から誘われるようになっていた。

「竹越様は本日委任状をお持ちですから、奥さまの記憶を視聴されることも可能ですが、いかがされますか」

「いや……」

 結局、貴史はなにもせずに帰っていった。樹は玄関の自動ドアが完全に閉まったのを確認して、ぽつりと言った。「ご覧になれば宜しいのに」


◇ ◇ ◇


「そう、やっぱり観なかったんですね」

 後日、樹の本来のクライアントであるかえでが訪ねてきた。貴史が施設でどのような話をしたのか、本人が語ろうとしないので様子伺いにきたのだった。

「残念ですか?」

「いいえ。そうだろうなと思っていましたし、それに」

 かえではガラスに仕切られたキッズスペースにいる貴文に手を振りながら、

「私でも切り離したいと思っている記憶を、あの人に観てほしいとは……」

「そうですか」

「自分の記憶を人に覗かれるのは気持ち悪いですしね」と淋しそうに微笑んだ。

 かえではとにかく施設が壊されなくて良かった、もしあの人が現場作業の道具を持っていっていたらと心配していたのだ、と冗談めかしていい、貴文の手を引いて帰っていった。記憶削除にかかる決して安くはない費用を、彼女は家計からではなく、自分の貯金から払ったと言っていた。保育料を払いながら働くかえでにとって、自分が自由にできる金はそう多くないだろうに。記憶を消した後の彼女は少し痩せ、目の下の隈が少し薄くなったようだった。そう、有体にいえば美しくなった。


 貴史が施設に再度やってきたのは、最初の訪問から二週間経ってからのことだった。建設会社で現場監督をしている彼は、作業着のまま施設にやってきた。濃ボルドーの絨毯は貴史の通った跡がはっきりと白かった。

「この委任状、まだ使える?」

「はい」樹はうやうやしくお辞儀した。


 クライアントが最初の面談で感情的になるのは珍しくない。かえでもその一人で、彼女は何故記憶を消したいか説明する際、担当心理士の前でさめざめと泣いた。

「もうどうしようもないんです。私の記憶さえなければ、夫婦はうまくいくはずなんです」

「記憶がなければ、とは?」

「貴史が生まれてから、ずっと独りでした」

 顔を上げたかえでの目の周りはマスカラがよれて真っ黒になっていた。

「夜の授乳や夜泣き、オムツ替え。確かに言えばやってくれることはありましたが、あの人には家のことはずっと他人事でした……家族なのに。今ではそれなりに子供の面倒を見てくれます。私が仕事に復帰するので、家事もかなり分担してくれます。でも、あの時ずっと独りだった、助けを求めても聞いてはくれなかったという恨みが消えないのです。むしろ、貴文がある程度話せるようになって、オムツも外れて、世話が楽になったからって、今更関わって来られてもとか、育児のおいしいところだけ味わおうとしないでと思ってしまうのです。もう過ぎたことだ、忘れようと思っても、ふとした時に湧き上がってきてしまうのです。いつまでも恨みを持っていたくないんです。彼の為というよりは、私が楽になりたいんです。だから」

 かえでは一気にまくしたてると、またハンカチで目を覆った。心理士は、後ろに控えていた樹と目配せをした。誰かの為に記憶を消したいというのは後々トラブルになることが多いが、現時点で本人がここまで整理できているのであれば、きっといけるだろう、という意味だった。我々がすることは、今は多少さざ波が立っている心を鎮めるだけだ、と。

「ただ、ご主人の記憶だけを抽出して抜くことはできませんが、それはご存じですか」

「はい、それも承知しています。子供の記憶がなくなるのは淋しいですが、ここに見に来ればいいと思っています。今ならきっと鮮明に残っているだろうから、ビデオ代わりだと思えば……。幸い私は育休延長していたので、この三年分を抜いても支障がないのです。逆に言うと、今がチャンスなのです」


 樹は、安楽椅子に座っている貴史の後ろ姿を見ながら、かえで自身忘れてしまっているはずの、最初の出会いのことを思い出していた。三年分を一時に観るのは難しいので、今彼は特に鮮明な記憶だけを抽出したものを観ているはずだった。それはかえでの感情が特に激しく揺れ動いたもので、彼には目を背け耳を塞ぎたくなるほど厳しいものになっているはずだった。

 画面が暗転した後も、かなり長い間、貴史は立ち上がらなかった。その間、安楽椅子から僅かにのぞく頭は身じろぎもしなかった。枯れがやっとブースから出てきた頃には、もう閉館時間になっていた。

「かえでの記憶を見ていて、思ったんです。僕も記憶を消した方がいいのかもしれないって」

「ほう、そうですか」

 樹はちょっと髭を撫でた。これは少し驚いた時にする彼の癖だった。

「かえでが苦しんでいたことは分かりました。でも、僕も葛藤が無かったわけじゃない。かえでが僕を許せなかったのと同じです。だけど、僕は彼女がそういう選択をせざるを得なかったことを含めて、その記憶と一緒に生きていくべきだと思ったんです」

「それがあなたの責任の取り方、ということですね」

「ええ。まあ、三年分の仕事を忘れちゃうと、職場で無能になっちゃうってのも大きいですけどね。臆病なんですよ」

 樹は貴史の涙袋が少し腫れていることを見逃さなかった。

「また、ご夫婦でいらしてください。今度は、貴文くんの映像を観に」


※このお話は連作短編です。前のお話はこちら↓



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