見出し画像

おひさまと自然と憂鬱 7/8~7/10

これから毎日朝早起きした時間で感じたことや考えていたことなど自由に書いていこうと思います!

7/8
今日から早寝早起き朝ごはんの習慣をつけるべく、久しぶりに早起きした。
気分が落ち込んでしまう時は、夜遅くまでぼーっと起きてマイナスなことばかりをつらつらとノートに書くことが多い。夜が好きではないのにわざわざ夜遅くまで起きて、せっかく日が出ているのに朝ゆっくり寝ているのは意味が分からないと思って、この習慣をつけようと思った。

もともと私は朝型の人間だと思う。1,2年前までは早朝のバイトをしていたし、遅刻することもなかった。中学、高校のときもほぼ毎日朝練があって、7時ごろには家を出ていたから、起きるのは割と早かった。

私が好きなのは夕日よりも朝日。朝日は、これからはじまる感じがしていい。あたたかい感じがして、いろんな生きる力が動いていくのがわかる。
夕日は少し寂しい。夜がくるのを告げる、最後の光という感じがする。きれいだけど。

私が住んでいる部屋は、窓が多くてとても日当たりが良い。東向きキッチンにひとつ、南向きベランダにひとつ、東向きの大きな出窓がひとつある。

お皿洗いをしているときに窓から外の空気が入ってくるのは私がとても好きな時間だ。それだけでうれしい。今は暑くなってしまって涼しい空気は入ってこないけれど、、

出窓もとても気に入っている。この出窓はいろんな風景を映し出してくれる。東向きだから朝日はもちろんきれいに映し出してくれる。日によって全然違う朝を映してくれるからほんとうに美しい。ピンクっぽい朝もあれば、黄色っぽい朝もあるし、曇りの朝もあれば、雨上がりで日が差しこむ朝もある。

夕日もきれいに見える。直接は見えないけれど、雲が夕日に照らされてピンクになっているところや、住宅の窓に映るまぶしすぎる西日のオレンジ。

昼間も晴れていれば空が広くて絶景だし、曇りの日はいつもより部屋に日が差し込まなくてまぶしくないし、雨の日は出窓の上の部分に水が垂れることで、普通より雨の音が大きく聞こえる。
今もきれいに晴れていて、青空に雲が浮かんでいるのを見ながらこうやっておうちへの想いを綴れている。出窓が大好きすぎる。

これからも出窓がある家に住みたい。


7/9
昨晩はいろいろあって寝るのが遅くなってしまった。起きる時間は固定したいと思ってなんとか起きたけど、やっぱり眠たくて少し寝た。

私の彼氏は私と付き合っている最中にASDとADHDであることがわかった。
相手の気持ちを読み取るのが苦手で、相手のことにお構いなく自分の気持ちを爆発させてしまう。

半年くらい同棲していたけれど、だんだんと癇癪を起し始めて、私もだんだんと苦しむようになった。

本来私は怒ることのない人間ではあるが、数カ月間毎日のように八つ当たりされて私の生活をめちゃめちゃにされると、どうしても怒りが生まれてしまった。怒りというより悲しみかもしれない。

癇癪を起しているときは、我を忘れて別人のように怒り狂い、それが落ち着いたら元の自分に戻ってごめんと謝る。

でもそれでは怒りをぶつけられた傷は癒えない。

これがずっと続いた。

さすがに私もメンタルがやられて、2カ月ほど続いたころに爆発的に泣くようになった。

結局、これを何とかしようと2人で一緒に解決策を考えていろいろやってみたけれど、まだ急に怒ってしまうのは続いていて、それで昨日は寝るのが遅くなってしまった。

それでも、できるようになったことはたくさんあると思う。

夜にお風呂に入ること、起きる時間から逆算して寝る時間を決めること、家事を自分事としてとらえること、怒っていることに自覚することなど、、


私はこういう発達障害が悪いものだとは思わない。

彼の場合は、地理特化型なので、日本国内のあらゆる地名をなぜか知っていたり、鉄道の乗り換えなどをアプリ使わず最適ルートで行えたりする。ほかにも観光名所とか特産物とか、とにかく地理に関することにはめちゃめちゃ強い。それは聞いていてとても面白いし、旅行に行ったら頼りになる。

また、普段から突拍子もない言葉を言ってみたり、みんなが考えもしないようなことを考えていたり(日常茶飯事すぎて例が出てきません、、)する。それは私にとっては面白いことで、彼の魅力だと思う。

発達障害は、改善していかなければならない部分もあるけれど、悪い面ばかりじゃない。発達障害のおかげで人にはない魅力を発揮する部分もある。

彼がうまく発達障害と付き合っていけたらいいなと思う。


7/10
ひとりの夜は寂しい。しんどいながらも彼と一緒に同棲し続けたのも、きっと私が寂しがりやだからなんだろうと、今振り返れば思う。

それぐらい私はひとりになるのが嫌だ。

特に夜は寂しくて、心がきゅっとなった感じがして、何かにすがるようにテレビをつける。音がないのは特に寂しい。

そう思うと、みんな寂しさを紛らわすために生きているのではないかと思う。

人生は盛大な暇つぶし。とどこかで聞いたことがある気がするが、まさにそうで。仕事も勉強も趣味もなにもかもが、人生という寂しい時間を埋めて気を紛らわせるためのものなのではないかと思う。

人がいてもこの心は満たされないのかもしれない。いくら愛し愛された人がいたとしても、どちらかが先にいなくなってしまって永遠ではない。となると、寂しさを自分で埋める努力は必要か。

私は少し前に、人生の楽しみがわからなくなった。

ただ生まれて死ぬこの人生、今周りにいる人ともいずれ必ず別れが来る、そんな人生のなにが楽しいのか。

人生の楽しみを謳歌している、とまではいかなくても、人生の楽しみを感じているうちは、こんなこと考えない。今は嬉しいことにあまり考えなくなった。

結局人生の楽しみってなんなんだろう。その答えはまだ見つけられていないけれど、ひとつ言えることは、自然の美しさに触れるときに心は動き、そういう自然に触れ続け、感じ続けることで私は満たされていくということだ。

人生の楽しみを見出せなくなった時、とにかく自然を見に行った。

まず蛍を見に行った。住んでいるところから車で40分くらい行ったところの山に蛍がたくさんいると有名な場所がある。そこにいった。

ほんとうにきれいだった。敏感な蛍は、音や光があるとすぐに隠れてしまうので、息をひそめて、存在感を消して静かに見ていた。

川の上を自由にゆっくりと飛ぶ蛍。そんな蛍がどれくらいいたんだろう、30~50匹ぐらいはいただろうか。とにかくみんな自由にゆっくり飛んでいて、蛍のペースに合わせるように私も自由になれた気がした。

そして上を見上げると満天の星。周りに何もない山奥なので、とてもきれいに見えた。一番暗い携帯の光でさえもまぶしく思えるほどに、目は野生に戻っていた。

本来こういうものだと思った。私は人工物に囲まれすぎている。自然には四角なんてないのに、四角い部屋で四角いディスプレイを見て四角を触って生きている。そりゃおかしくなるよなと思った。

次に一度行って大好きになった小さな島に1年ぶりに行った。そこには鹿がいて、海があって、ちょっと頑張ったら登れる小さな山がある。

そこは1年前となにも変わっていなくて、落ち着いた。私は変わらない場所が好きだ。

この島は、どこにだって私をいさせてくれるし、どこにだって居場所を与えてくれる。適当な場所に座っても全然居心地が悪くない。また行きたい。

次はもう少し遠出して少し大きな離れた島に行った。そこは2年ぶりくらいに行った。そこはみかんが有名な島で、みかん畑から降りてくるみかんモノレールがある。島には本当に何もなくて、暑い中ただただ1時間ちょっと散歩した。

海辺でゆっくりしたかったが、フナ虫がたくさんいて、虫嫌いの私は海辺に近づくのも怖かった。

結局、散歩道の中間地点にあった、小さなカフェでおいしいみかんジュースを飲んで帰路に就いた。町ののんびりした感じや本当にお店がなくてみかん畑だけが広がっている風景には心が晴れ晴れした。

山の中のきれいな川も見に行った。透き通る水が勢いよく流れているのは、すべてを洗い流してくれるような、時は待ってくれないぞと言われているような気分になった。大きな岩の上に、大きな木が強く根っこを張って立っているのも生命のパワーを感じた。

こうやって自然に触れていくと、少しずつエネルギーをもらって回復できた気がする。私はこういう自然がやっぱり好きだ。

まだ完全に回復できたわけではないけれど、少しずつ前に進んでいるのを感じる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?