生きてさえいれば 8/5
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引き続き繊細な方や落ち込んでいる方は読まない方がいいかもしれません。
8/5
一度死ぬのを本当に覚悟した。
全然怖くなかった。
鮮明にその風景が頭に浮かんで、そうしたくなった。
仰向けに海に浮かんで、いつか本当に陸にたどり着けなくなる。
そういう死に方がいいんじゃないかと思った。
ここまで覚悟したのは初めてだった。
でも、身体を張ってとめてくれた。それでやめた。
こうやって肌を触れ合って、必死に止めてくれる人がいるというのは、なんて幸せなことなんだろう。
それだけのことで、死ぬのをやめられるのに、どうして本気で死のうなんて思ってしまうんだろう。
覚悟を決めてしまうのは恐ろしい。
死ぬことがなにも怖くなくて、この奇跡的な生をさっさと捨ててしまうことになんの抵抗ももたない。
でも私はもう生きることにした。
おとといは直前まで悩んだ末、友達のお通夜に出ることに決めた。
最後にもう一度顔を見たいと思った。
行くと決めたのがぎりぎりで、予約もせずにバスに飛び乗って地元へ向かった。
友達のお通夜は、神式で、正しくは通夜祭というらしい。
仏式での葬儀が一般的なので、神式は初めてだった。
とはいえ、通夜祭ということもあって、そこまですることはなく、基本的に言われた通り動けばよかったので安心だった。
一通り終わった後、通夜祭でどのようなことを行ったか説明を受けた。
神式では、人はなくなると神様のもとへ帰るということになっている。
なくなった人は、その家の守り神となる。ということらしい。
簡単にいうと、通夜祭で行ったことは、亡くなった方の魂をきれいにして、亡くなったことを知らせ、いろんな親しい人に魂を分けることだそうだ。
(場合によって違うのかもしれませんがこのような説明を受けました。)
私たちにもその魂を分けてくれたらしい。
楽しい時とか、幸せな時、呼べばすぐに来てくれるみたいだ。
その言葉に私はすごく救われた。
どこか、友達が亡くなったのに楽しいことをするのは不謹慎なんじゃないかとか、私があんなだったからこんなことになってしまったんじゃないか、だから責任をとらないと、みたいなことを、心のどこかで思っていた。
私が楽しいことをたくさんして、幸せに生きれば、一緒にそれを共有できる。
なんてすばらしいことなんだろう、、
最後にその子の顔をみて、あいさつした。
私は生きるよと宣言した。
ちゃんとお家を守るんだよ、気が変わったら生まれ変わってまた会おうねと。
その子は、数日前に会ったときよりも、色が薄れていたが、前よりも笑っているようだった。
この数日間、いろんな人が来て、最後のお別れができたんだろうなぁ、幸せだったんだろうなぁと思った。
家族は本当に強かった。
お家に訪ねたとき、涙ひとつ見せなかったお母さん。
式では涙をこぼしていたが、それでも自分を保っていた。
ついにこの時がきたというような、寂しいような。でも心は生きているようにみえた。
お父さんも時々言葉を詰まらせながら、最後の挨拶をしていた。
けれど、その芯は強く、また立ち直ってくるような力を感じた。
お兄ちゃんは、終始お兄ちゃんを保っているようだった。
それは並大抵にできるものとは思えない。
自分が家族を支える、笑顔にするという責任を、もうすでに果たし始めているような雰囲気を感じた。
式の後の直会でも、お母さんはみんなのお母さんで、笑顔ではきはきして、どの子供も自分の子供だというような愛を感じた。
全然空元気とかではなくて、本当に心から私たちを愛してくれている、そういう強さゆえの元気だと思う。
本当に通夜祭に行って良かったと思った。
私自身がすごく救われてしまった。
幸せを感じる権利と義務を与えてくれた。
最後にもう一度顔を見れて、納得して送り出せた。
生きると宣言できた。
昨日は花火大会があった。
先週の花火大会で生きる勇気をもらったので、もう一度その力がほしいと思って、どうしても行くことにした。
とにかくすごかった。この感想はまた次の投稿で出そうと思う。
その子にも声をかけて、一緒にきれいな花火を見られたと思う。
視界のすべてを埋め尽くす、色とりどりの大きな花火。
きっとその子にも届いて、きれいやなぁと思ってもらえただろうな。
こういうことをこれからも何十回、何百回とできたら、もう生きている意味とか、そういう難しいことはどうでもいいと思えるだろうな。
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