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未来に転ばされない

#未来のためにできること

そもそも、未来とは何だろうか?

こんな哲学的な話から「未来」について考えてみよう。なぜって、未来とは何かが分かって初めて、「未来のためにできること」が分かるのだから。現代人は、この世の正解なんてないのだと腑抜けたことを言っておきながら、実は切実に正解を求めているのかもしれない。だから、いきなり「未来のためにできること」から考え始めてしまうのだ。

よく考えれば、「未来」なんて存在しない。日本語の文法に従えば、今は存在する、過去は存在した、だが未来は存在する「だろう」。
今度は、逆から言ってみよう。存在するのは今、存在したのは過去、存在するだろうものは未来。未来だけが、存在するとは限らないように見えないだろうか。
次は、「確かに」をつけて言ってみよう。確かに存在するのは今、確かに存在したのは過去、確かに存在するだろうものは未来。未来だけが、存在するとは限らないように見えないだろうか。

さて、確かに存在するだろうものって一体何だろう?
こんなことを言う人がいるかもしれない。明日はバイトのシフトが入っているから、『「確かに」明日僕は働いている「だろう」』。
だけど、これは本当に「だろう」を消去できているのだろうか?なぜなら、もしかしたら、明日僕は高熱が出て、バイトを休んでいるかもしれないからだ。そういう可能性が残っている以上、未来は結局「だろう」というものでしかない。未来は全然確実なことではない。
さらに、もっと究極的な考え方がある。それは、あらゆる『ある「だろう」』を覆す、『ない「かもしれない」』のことである。
つまり、僕がどんなに『〜がある「だろう」』と思っても、もしかしたら僕はその時には死んでしまっていて、『〜がない「かもしれない」』という可能性が残ってしまう。
だから、絶対に、未来の「だろう」は消去できない。

「未来」とは、「〜だろう」という想像の対象でしかない。「明日バイトのシフトに入る」という想像の、対象でしかない。
想像自体は「今」存在する。なぜなら、想像しているのは「今」だから。だけど、想像の対象は「未来」に存在するとは限らない。それは「だろう」という程度のものでしかない。

では、その想像するという行為はどのようにして出来上がるのだろうか?
漢字で考えると、「想像」とは「像を想う」と書く。
想うのは今。これは先ほどの議論と同じである。
それじゃあ、像はどのように想われるのか。
それは象を想う人のそれまでの「過去」によって、ではないだろうか。
お金を稼ぎたい。困っている人を救いたい。あの人に好かれたい。戦争を無くしたい。休みたい。持続可能な社会を作りたい。
人それぞれの色んな「過去」は人それぞれに色んな「〜したい」を作り出す。「〜したい」という欲望が、人に像を想わせる。

欲望が悪いと言っているのではない。
ただ、「未来」とは、未来を想像する人の「〜したい」という以上のものではない、ということを伝えたいのだ。

だから、「未来のためにできること」とは、結局、自分自身の欲望を見つめ直すことではないのか。
「未来」にばかり目がいって、自分を見つめる目が空っぽになると、本末転倒である。そういう人は自分の足元に目が行かないで、未来という欲望にばかり目がいって、いつか思いもかけずに転んでしまう。もしかしたら、そのまま二度と立ち上がれないかもしれない。
「未来」を想うのは常に自分自身である。「未来のためにできること」とは、そんな自分自身を自己内省することの他に何があるだろうか。

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