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土用丑の日 八十八夜

 毎日1年前のことを書いているうちに、1年後の土用丑の日になっていた。
 久ぶりにエアコンの効いた書斎を抜け出して外に出ると酷暑の炎天下だった。友人と待ち合わせしている吉祥寺まで行こうと思い、ペットボトルの水を持って近くのバス停にたどり着くと、すでに並んでいる乗客がいた。炎天下の道ばたに突っ立っていたが、待てど暮らせどバスが来る様子はない。時刻表を確かめようとして思いあたった。平日の昼はバスの本数が少ないのだろう。汗だくでぶっ倒れそうになりながら陽炎が揺らめく道の彼方を見やっていると、「どうぞ」と白い日傘を差し出された。昨年がんの治療を終えてからまもなく他界した母ぐらいの年齢とおぼしき方だ。「いえいえ」、と断りながら、そんな個人的な話を切り出していいものかと思っていると、僕の後ろで待っていた父と同じぐらいの年齢とおぼしき老人が、「すみませんねえ」と礼を言うのを聞いて場所を移った。いくら暑いからってどうかしているな。実は昨日も父と最後に信達をひとまわりした話をノートに書いていたのですが、まだ作品はできあがっていないんですよ。というのも、1年後の今年の夏もまた入院する予定になっているので、1年前に書いたノートをまとめているところなんです。という話は吉祥寺で会う予定の友達にメールで送ってあるのだからするまでもない。問題はこの暑さとバスが来ないことなんだから。日傘を持ったご婦人から、「お時間は?」と訊かれて、スマホを取り出し、時刻を確かめようとすると、「お元気ですか?」とメッセージが届いている。汗が滲む目を凝らしたが送り主の名前もよくわからないので、「元気ですよ」と返した頃合いにバスがやってきた。
 あいている席に座り、1年前の六月末のチャットの履歴を遡った。父と信達めぐりに出かけたのは、入院日も決まり、治療に向けた盛りだくさんのスケジュールをこなしている最中だった。ステージ2が確定したのは6月19日で、友人から日本橋の美国屋の鰻が届いたのはその後だった。己のがんも治療方法も調べずに、治療を望む患者として何枚もの同意書にサインをしていたことになる。
 でも今ならわかる。
 このノートを書きはじめたのは、退院して己のがんについて調べてからだ。 
 手術をすすめられて転院をしてからだ。
 転院先の病院で入院の日付が決まってからだ。
 命の恩人たる歯科医にことあるごとに相談をしては1年以上がたってからだ。
 美国屋に行けず、甘くなかった桃にかぶりついた丑の日から一年もたってからだった。

 吉祥寺の八十八夜というレストランで食事をしながら店主も交えて四方山話をした。帰宅して「養蚕掃旬の頃の事」を確かめた。

「東国にては、立春より八十八夜や前後は、桑芽立何程のり申候年にても、末々桑不足に成候ものと心得可申候」



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