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夏目漱石「明暗」

本書は、新聞に連載小説として188回掲載されましたが、漱石の死によって未完となりました。
前回の投稿記事「明暗を読み始める」では、90回までのあらすじを小説に沿って時系列的に書きました。
今回は、その方式はとらないこととします。
本書の内容を伝えるという意味では、その主題に迫ることから登場人物の関係性に焦点を置いて記述した方が良いのではと考えました。

以下、本書の内容を記します。

〇底流に流れる根本の問題として、主人公津田由雄に対する妻お延の気持ちがある。新婚6か月の妻として精一杯夫に尽くしているにもかかわらず、夫は応えてくれない。自分の夫に対する愛情に対して、夫の愛情が感じられない。
〇それは何故か。周囲の状況から、夫には他に愛する女性がいるのではないかという疑惑だった。
〇以上が本書の前提としてあり、登場人物同士の会話や心理が、以下のとおり対決のような雰囲気で描かれている。
〇津田由雄×お秀(妹)。由雄が痔で入院しているときに経済的に援助するために見舞いを兼ねて来るが、兄の感謝の無いことに言い争いとなる。はじめはお延を大事にし過ぎていると責めるが、さらに「お延さんより大事な人がいる」と言ってしまう。それを襖の外でお延は聞く。
〇お延×お秀。「大事な人」とは誰なのか、自分の疑惑を明らかにするために、お延は翌日にお秀の家に行き、お秀に泣きながら迫る。
〇由雄×吉川夫人。由雄は、吉川夫人には公的にも私的にも大変に世話になっている。由雄が以前に愛した清子のことも知っていながら、お延と結婚させている。吉川夫人は、由雄が清子に未練があるのに隠しており、なぜ清子は突然に由雄を去って由雄の友人関と結婚したのか確かめるように勧める。清子は湯治に温泉に行っているから由雄も行って会うように強引に迫る。
〇由雄×小林。小林は身を落として朝鮮に下ってゆく。それに比べると由雄は楽な暮らしをしており、小林は送別として金銭を無心する。小林は、お延にも意味ありげな嫌味を言っており、由雄は軽蔑している。小林もまた、心無い由雄を軽蔑している。
〇由雄×清子。温泉で再会を果たす。清子ははじめは驚くが、落ちついて由雄と応対する。由雄の友人でもある夫のことも蟠りなく話題にする。
〇会話はそこまでで中断する。漱石の死により未完となる。

以上のような内容は、何を意味しているのか、漱石は何を表現しようとしていたのか、なかなか掴めません。
上記の謂わば「対決」は、世俗的にはよくある親族間や友人間の関係性です。
その内容は、上記の2,3行で表せる事実にすぎません。
しかし、それぞれの「対決」が両者の心理的な葛藤を背景として「事実」を超え「真実」に迫るように描かれています。
それは、視点が主人公やお延であるのですが、相手の心理状況まで書き込んでおり、各人の真実を顕わとするような描写だからかもしれません。

以下に、わたしが圧巻と思われた妹お秀が兄由雄を責めている会話の場面を本書から引用します。
(夏目漱石. 夏目漱石全集 決定版 全124作品 (インクナブラPD) innkunabula. Kindle 版. 以下同じ。)

「黙り ませ ん。 云う だけの 事 は 云い ます。 兄さん は 嫂 さん に 自由 にさ れ て い ます。 お父さん や、 お母さん や、 私 などよりも 嫂 さん を 大事 に し て い ます」
 「妹 より 妻 を 大事 に する のは どこ の 国 へ 行っ たって 当り前 だ」
 「それだけ なら いい ん です。 しかし 兄さん のは それだけ じゃ ない ん です。 嫂 さん を 大事 に し て い ながら、 まだ ほか にも 大事 に し て いる 人 が ある ん です」
 「何だ」 
「それ だ から 兄さん は 嫂 さん を 怖がる の です。 しかも その 怖がるのは ─ ─」  
 お 秀 が こう 云い かけ た 時、 病室 の 襖 が すう と 開い た。 そうして 蒼白い 顔 を し た お 延 の 姿 が 突然 二人 の 前 に 現われ た。

緊張感が最高潮となり、なかなかに読み応えがあります。
お延の夫由雄に対する疑惑は、さらに深まります。
さらにもう一か所、由雄と清子の経緯を記述した部分を以下に引用します。

有体 に いう と、 お 延 と 結婚 する 前 の 津田 は 一人 の 女 を 愛し て い た。 そうして その 女 を 愛さ せる よう に 仕向け た もの は 吉川 夫人 で あっ た。 世話 好 な 夫人 は、 この 若い 二人 を 喰っ つける よう な、 また 引き離す よう な 閑 手段 を 縦 まま に 弄 し て、 その たび に まごまご し たり、 または 逆 せ 上っ たり する 二人 を 眼 の 前 に 見 て 楽しん だ。 けれども 津田 は 固く 夫人 の 親切 を 信じ て 疑 がわ なかっ た。 夫人 も 最後 に 来る べき 二人 の 運命 を 断言 し て 憚 から なかっ た。 のみ なら ず 時機 の 熟 し た ところ を 見 計っ て、 二人 を 永久 に 握手 さ せよ う と 企て た。 ところが いざ という 間際 に なっ て、 夫人 の 自信 は みごと に 鼻柱 を 挫 かれ た。 津田 の 高慢 も 助かる はず は なかっ た。 夫人 の 自信 と共に 一棒 に 撲殺 さ れ た。 肝心 の 鳥 は ふい と 逃げ たぎり、 ついに 夫人 の 手 に 戻っ て 来 なかっ た。

本書の結末が描かれていないこともあり、本来のテーマが判然としないように思われます。
ただ、対決型で書かれているこの会話と心理描写は、人の世の上辺のベールを剝ぐように真実に迫っているように思えます。
小説「行人」の一節「塵労」というべき世情が、浮き上がってきます。
それ自体がこの小説の目的だったのか、結末の事態によってはあくまで手段としてそこに導くための表現だったのか。
わたしには定かには分かりかねます。

また、もしかすると漱石は「この小説は未完ではないよ。これでジ・エンドなんだよ」と言う可能性がゼロとも言い切れません。

最後に、蛇足となりますが、わたしにはこの小説の「お延」という人物に魅力を感じます。
人物がよく描かれていると感じ入ります。
それに比べて、肝心の清子はイメージがあまり湧きません。
これは未完に終わったことで人物像が描き切れてないということなのでしょうか。

正直言いまして、難しい小説ですが面白くもありました。
やはり夏目漱石の小説家としての力量を感じさせられました。


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