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92.10:32 「不思議」を掘り下げた先にある気づき

梅雨の中休み。
今日は熱中症警戒アラートが発表されている。
最近、暑さと湿気に心身ともにやられているので、今日の暑さに戦々恐々としている。
京都では祇園祭が始まり、やっと「夏」になった。
京都在住の皆さん、京都にお越しの皆さん、一緒にこの京都の過酷な夏を乗り切りましょう。


家庭菜園、ベランダ菜園が流行って久しい。
コロナ禍でそれらは更に人気になったのではないだろうか。
かく言う私も、過去に住んでいるマンションのベランダでミニトマトや紫蘇、バジルなどを育てたことがある。
うちのベランダは、菜園に全く適していなかったので現在は行っていないが。

話は変わるが、私の趣味の一つはYouTubeを見ることである。
Vlogと呼ばれる、日常を切り取った動画が好きなのだ。
あまり奇をてらったものは好まない。

あるVlogで、家庭菜園で育てたハーブでハーブティーを淹れて飲んでいるのを見た。
そして、その人はその行為にひどく感動していた。
自分が育てたハーブで入れたお茶が、「美味しい!嬉しい!」と言って物凄くニコニコとしていた。
私はそれに対して、不思議な感情を抱いた。
なぜ感動できるのかと。

自分が育てたものを口にすることが、そこまで「嬉しい」ことなのだと私は思ったことがあっただろうか。

自分で食べ物を育てるという経験自体、ほとんどの日本人にとって縁遠いものである。
ただ、学校教育の現場において体験的に作物を育てて食したことがある人は多いだろう。
私にもその経験がある。
しかし、私はその時感動したという記憶がないのである。

なぜだろうと考えた。
答えは明快だった。
実家が、兼業ではあるが農家であるからだ。
私にとって、自分たちで作って自分たちで食べるということが、身近であるし、自然なことである。
幼い頃から、田んぼや畑での作業を(遊びの一環ではあるが)手伝っていた。
育てて、収穫し、口にするという行為を、実家を出るまで経験していたのだ。

そこには「嬉しい」という感動はなかった。
勿論、新鮮で「美味しい」という思いはあったが。
「仕事」であるという事実も、感動につながらない大きな要素であっただろう。

果たして、「嬉しい」ことなのだ思えなかった私と、自分で育てたハーブで飲むお茶を「嬉しい」と思えたYouTuberのどちらが幸せなのだろう。

それは後者だと思う。
私はその動画を見て、目が覚める思いだった。
当たり前すぎて分からなかったことに、やっと気づけたのだ。
育てて、収穫して、口にする過程ではいくつもの苦労と困難がある。
それを乗り越えて、自分の口に入り、血となり肉となることの奇跡がどれだけ素晴らしいことか。
それに感動できる自分であることが、どれだけ素敵なことなのか。

いくつになっても、学ぶことはあるのだなあ。

自分が感じた「不思議」に焦点を当てることで見える新しい景色に感動したので、今回このエッセイを書いた。
今後も、自分の感情を大切に扱いたいものである。

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