アスタラビスタ 4話 part7 4話完結
彼と河川敷へ夕日を見に行ったのは、たった一度きりだった。のちに私は彼から別れを告げられる。
私は彼を忘れるために、彼の好きだった茶色の髪を黒く染めた。彼の好みに合うよう、今まで髪を染めていたのだ。自分の茶色の髪を見ていると、彼の理想に近づきたいと努力していた自分が、容易に思い出された。
だから髪を真っ黒に染めた。塗りつぶすように。
着飾ることもやめた。彼の隣で輝くという目的を失った私は、綺麗な洋服にも、可愛い靴にも惹かれなくなった。
大学でも家でも、私は独りぼっちだった。彼を失った時、私は友達をも失った。私が仲良くなった友人たちは、全員彼を通して仲良くなった学生たちだった。不器用だった私は上手く立ち回ることができず、彼と別れたために、友人たちからも距離を置かざるを得なかった。
私には、話す相手もいない。
彼を失ったという現実から、私は一歩も進めなかった。
午前中の講義を終え、帰宅するために3号棟の2階から、ぼんやりと1階へ向かっている時だった。同じ学部の女子学生といる彼が、1階のフリースペースにいるのが見えた。隣にいる彼女は以前と同じ子で、彼らは楽しそうに雑談していた。
私は階段を降りる足を思わず止めた。
結局、私と彼は運命ではなかった。互いに深く理解し、努力していたが、それでも駄目だったのだ。どうしようもない。どうしようもなかったのだ。
ただ、私は諦めきれなかった。彼は諦めたが、私は彼との出会いを運命だと思い込みたかった。 だから、最後に気持ちが残っていたのは私だった。彼が去る後ろ姿を見送ったのは、私だった。
だって、そうじゃないか。あんなに好きだったのに。あんなに愛されていたのに。それが突然すべて消えるなんて、到底受け入れられない。
また、地獄へ戻るなんて、信じたくなかった。
ポケットに入れていた携帯が、大きく震えた。現実へと引き戻された私は、携帯を取り出し、画面を確認した。
来ていたのはメッセージだった。
『膝の調子が良かったら、どう?』
顔文字も絵文字も付いていない、感情のないような一文だった。そんな文章に、私は嬉しくて笑みが零れた。
私は雅臣たちと出会って、再び薙刀をやって、彼への失恋は過去のものへと変わった。雅臣は正しかった。薙刀を通して、私は変わることができた。雅臣に半ば強制的に薙刀をやらされたときは「薙刀をやっていた頃の自分に戻る」という望みに賭けていたが、今の私は過去、薙刀をやっていた頃の幼い少女の私ではない。失恋し、巡り巡ってまた薙刀へと戻って来た私は、どこか少しだけあの頃より大人になっていた。
勇気を持って、私は足を再び踏み出す。私は変わった。それを証明するのは、この力強く鼓動する心臓と、右膝の大きな冷却湿布。そして黒い髪だ。
私は今まで、彼に置いて行かれたとばかり思っていた。私は彼と付き合っていた頃と何ら変わってはいないのに、彼はどんどん前へと進み、変わっていってしまう。私は過去に取り残されてしまうような気がしていたのだ。
しかし、私も変わった。彼も変わったが、私も変わったのだ。
彼らのマンションへと訪れると、駐車場で雅臣の姿を見つけた。彼は車に寄りかかり、スマートフォンで音楽を聞いていた。
私が来たことに気が付くと、耳からイヤホンを外し、私に笑いかけた。
「遅かったな。大学はどうだった?」
笑みを浮かべながら、雅臣は私に尋ねてきた。私が失恋したことを打ち明けてから、彼ら三人は私を気に掛けてくれていた。別れた彼が同じ大学で同じ学部だということも話していたから、雅臣はそれを心配してくれたのだと思う。
「なんとか大丈夫です」
私は彼に笑い返した。しかし脳裏には、先ほど見た女子学生と彼の2人の姿が深く焼きついていた。
「上出来だよ」
私が大学で見てきた光景を、まるで知っていたかのように、雅臣は優しく囁いた。
「右膝、大丈夫か? まだ腫れは引かないか……。ごめんな」
私の右膝へと目を落とし、彼は申し訳なさそうな顔をした。
「大丈夫です。問題ないです。本格的にやっていた頃は、こういうのはしょっちゅうだったので」
私がそう答えると、彼は「頼もしいな」と苦笑いした。
「じゃ、今日は頭空っぽにしようぜ。武道場は貸し切りだ」
そう言って雅臣は、車の後部座席を指差した。彼が指示した場所を覗き込むと、私と彼の防具が積んであった。
「今日は俺も負ける気はないからな」
胸を張ってにやりと笑う彼をみて、私はふと考えた。どうして失恋から武道という場所へ来てしまったのか。
だが、仕方ないのだ。
面白いから、仕方ない。
「私だって、負けませんから」
知ることは罪だ。恋を知らなければ、私はこんなにも苦しい日々を送ることはなかった。恋を知らない頃に戻れたらと、よく思う。けれど私は恋を知ったから、悲しみを知り、大人になれた。傷ついたから、大切なものをまた、見つけることができた。
もうあの河川敷には、私の心も彼の心もない。そしてあの夕焼けも、あの風も。
私はきっと、生きている限り、変わり続けていく。彼もだ。それらは過去になり、そして薄れていく。
それでも私は探し続けてしまうのだと思う。あの頃に似た夕日を、似た空間を、似た幸せを。
そして、今もあの河川敷にいけば、あの頃の私と彼がいるような気がして、ならないのだ。
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