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野淵昶ものがたり(1/3) ~女優・入江たか子を発見したアイルランド演劇専門家~

ごきげんよう、弾青娥だんせいがです。皆様は「あきら」と聞いて、どんな人物が思い浮かぶでしょうか?

例えば、黒澤明、鳥山明、神谷明、伊福部昭、岩崎昶、錦野旦、寺尾聰、中尾彬、柄本明、布施明、小林旭、宮川彬良、池上彰、福澤朗、前田日明、北斗晶、EXILE AKIRA、仰木彬、中村晃、根尾昂、さくまあきら、日日日、御堂筋翔、風間あきら、砂塚あきら……という風に枚挙に暇がないですね。

皆様の知る「あきら」が、上の列挙リスト内にいらっしゃれば嬉しいです。今回の記事ですが、その目的は「あきら」ブレインストーミングではなく、きっと皆様にとって見慣れぬ、また聞き慣れぬ「あきら」を紹介するためでございます。どなたかと申し上げると…………


野淵昶のぶち あきらです。


この野淵昶は1918年から関西を主な拠点にして、新劇の舞台演出家、映画監督として約半世紀にわたって活躍した人物です。

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野淵昶(1896-1968)

野淵昶への本格的な関心が生じたのは、アイルランドの作家ロード・ダンセイニの戯曲を1920年代の関西で上演したという経歴を知ってからです。それから調べていくうちに、詳しい調査があいにく果たされていない野淵昶の生涯に強い関心を抱くようになりました。調べていくうちに、多様な興味深いことがらを現在完了進行形で知ることになっています。

このシリーズ記事が野淵昶という人物を知るきっかけになれば光栄です。(皆様の脳内の「あきら」ライブラリーをさらなる充実化をするのにも貢献できれば嬉しいです。)

※引用文献内の旧字体漢字は新字体に改め、仮名遣いは現代のものに改めています。



幼少期と学生時代

幼少期

1896年6月22日、野淵昶は開業医の父である正治と母リヨの間に、奈良市の油留木町(奈良県立美術館のすぐ北に位置する地域)で生まれます。「」の「」い夏至に生まれたことが由来して、祖父の龍潜から昶と名付けられました。

祖父の龍潜(1842-1909)は奈良県庁、正倉院に勤務しました。

昶は祖父母のもとで育てられ、奈良市の花芝町(鍋屋町を隔てて油留木町の西に位置する町)に暮らします。この祖父ですが、リアルチート級といわんばかりの大人物で、桂太郎児玉源太郎のような高官から「先生」と慕われた存在であれば、奈良県の古墳墓研究のパイオニアでもあり、海外の王族や皇族が奈良県を訪れた際に付接待委員を務めた人物でもありました。

児玉源太郎(1852-1906)
日露戦争では満州軍総参謀長を務めて勝利に寄与しました。

このようなビッグネームの祖父は1909年に亡くなるも、昶は幼少期と学生時代で転機を迎える際、龍潜の偉大なる影響力に助けられることになります。幼少期の昶は住まいを何度か移しましたが、その場所はどれも祖父の門人によって紹介されたところでした。

旧制中学時代

1904年から、昶は奈良県師範学校附属小学校(今の奈良教育大学附属小学校)に4年間、通いました。それから、現在の堺市内に引っ越した昶は、堺中学校(今の三国丘高校)に通学します。この頃に高山樗牛の全集、斎藤野の人の『哲人何処にありや』を愛読しました。加えて、月刊誌『英語青年』を好んで読み、英語に通じた少年になりました。

作文にも長けていた野淵少年は、作文で少なくとも二回受賞を果たします。そして、妹の多鶴子によると、1909年に東京帝国大学の哲学科を卒業した英語担当の辻良蔵に可愛がってもらったようです。1914年の卒業文集では、モーリス・メーテルリンクの戯曲『モンナ・ヴァンナ』に言及し、旧制中学時代から演劇に親しんでいたことがうかがえます。

大学時代

それから、野淵昶は大学で英文学を学んだ……と言いたいところですが、人生いろいろです。1915年、同志社大学の神学部の門を叩きます。一説には、堺でキリスト教会を建てていた岡村平兵衛の影響を受けたと考えられます。

岡村平兵衛(1852-1934)はプロミンによるハンセン病治療が普及する前、
ガマハダダイフウシ(上の写真)の種子から作った油、大風子油を製造して患者を救いました。

野淵昶は京都御所近くで下宿します。妹によると、この頃の昶はあまり健康に優れず、母と妹のこしらえた滋養のつく食べ物をたびたび送ってもらっていました。そのような中、同志社大学でのキャンパスライフは1年ほどで終わりを告げます。

これは、前述のような健康面の問題が悪化したせいとも推測できます。一方、昶の末弟である忠雄は、同志社大学の校内誌に寄稿したフィクション小説が不謹慎な内容だったせいで、停学処分をくらったと語っています。(なお、筆者はこの小説にモーリス・メーテルリンクの『青い鳥』、バーナード・ショーの小説『カシュル・バイロンの職業』への言及があるのを確認しており、この作品は野淵昶が何を読んできたかを知る上で重要な資料だと言えます。)

しかし、野淵昶はこのピンチにおいても祖父に救われます。龍潜の門人でもあり、京都大学(当時は京都帝国大学)の書記をしていた松山義通の世話で、昶は同大学の文学部英文科の選科に入学します。1916年のことでした。(本科の同級生には、アイルランド文学研究家の山本修二がいました。)

1925年に完成した京都大学の時計台。その完成より前に、野淵昶は同大学に入学しました。

1916年の京都大学の英文科は、訳詩集『海潮音』の著者および教授の上田敏を亡くしたところでした。後任として、アイルランドの詩人W・B・イェイツを上田と並んで日本にいち早く紹介した厨川白村、日本におけるラグビーの父であるエドワード・B・クラークを迎え、こうした教授たちのもとで、昶は学を積みます。末弟の忠雄曰く、京都大学在学中に西洋演劇への関心を強く持つようになったそうですが、この頃の昶は荒神橋近くの常盤旅館に止宿していました。

厨川白村(1880-1923)。『京都帝国大学新聞』第113號の「文壇十字路」によると、
「論文は落第だが、演出のおかげで及第だ」と、野淵昶の卒業論文を評しました。

1918年には、同志社大学の学生とエラン・ヴィタール小劇場を結成し、演劇演出家としての経験を積み始めます。そして、京都大学の卒業論文では「シングの谷蔭を演出する方法」という英語論文を出し、その演出を京都の三条青年会館(現在の京都YMCA)で実演しました。



新劇運動家として

1918年の第3回試演後の写真。
最前列で両手を握って俯いているのが野淵昶。後ろには成瀬無極(左)、有島武郎(右)の姿も。

エラン・ヴィタール小劇場の活動(前期)

卒業後の野淵昶は、エラン・ヴィタール小劇場の活動に勤しみます。同劇場は顧問に秋田雨雀長田秀雄を迎え、相談役には京都大学教授の新村出成瀬無極厨川白村、作家の有島武郎らを迎えました。初期の同劇場のメンバーだった行方薫雄によると、総稽古の際に大正ロマンを代表する画家の竹久夢二も見に来たとのことです。
(エラン・ヴィタール小劇場は同志社大学青年会館で1918年4月18日に武者小路実篤の「未能力者の仲間」を試演した一方、竹久夢二は同年4月11日から20日まで京都府立図書館で「第二回竹久夢二抒情画展覧会」を開いていました。)

活動初年の1918年に、エラン・ヴィタール小劇場が舞台にあげたのは武者小路実篤秋田雨雀の戯曲でした。1919年になると、以下のように日本の戯曲のみならず海外の戯曲も上演されるようになります。

  • 3月8日 京都・岡崎公会堂東館
    グレゴリー夫人「月の出」
    成瀬無極「藻の花」
    チェーホフ「犬」

  • 4月23日~25日 京都・三条青年会館
    アンドレーエフ作、森林太郎訳「人の一生」
    チェーホフ作、小山内薫訳「犬」
    倉田百三「出家とその弟子」(第一幕)

  • 6月18日~20日、22日 京都・三条青年会館
    山本有三「津村教授」
    グレゴリー夫人作、高倉輝訳「月の出」
    シング作、野淵昶訳「谷蔭」 ※演出にまつわる野淵の卒業論文の実演。

  • 9月24日~28日 京都大丸呉服店楼上
    武者小路実篤「二つの心」
    シュミットボン「街の子」

  • 10月18日~19日 大阪土佐堀青年会館
    シュミットボン「街の子」
    エフレイノフ「陽気な死」

  • 10月25日~26日 神戸三宮カフェー・オリエント
    シュミットボン「街の子」
    エフレイノフ「陽気な死」

  • 11月20日~21日 京都・岡崎公会堂本館
    倉田百三「出家とその弟子」(全幕)

  • 12月8日~10日、京都帝大学生集合所
    有島武郎「死とその前後」

エラン・ヴィタール小劇場は、1920年代においてほぼ毎年5回ほどのペースで上演会を行ないました。1922年と1925年は例外でした。(後者の年は野淵が結婚をして、下鴨神社近くに住まいを移した年でもありました。)

入江たか子の発見

特に1920年代後半はエラン・ヴィタール小劇場にとっての黄金期でした。そのさなかに数々の俳優の卵を発掘しますが、中でも際立った存在は入江たか子でした。

入江たか子(1911-1995)

入江たか子は、すでにエラン・ヴィタール小劇場の一員だった兄の東坊城恭長の紹介で加わりましたが、入江の在籍した1927年には次の戯曲が上演されました。(太字表記の作品名は、入江が出演した戯曲です。)

  • 5月25日・26日 三条青年会館
    チェーホフ作、小山内薫訳「伯父ワーニャ」(第一幕カット)
    チェーホフ作、米川正夫訳「犬」

  • 6月25日・26日 三条青年会館
    岸田国士「留守」
    ヴィルドラック「商船テナシティ」

  • 7月2日 大阪朝日会館
    ヴィルドラック「商船テナシティ」
    岸田国士「留守」

  • 9月27日 岡崎公会堂
    トルストイ「生ける屍」

  • 10月1日、大阪朝日会館
    トルストイ「生ける屍」

これらの上演を目にした観客の中には、映画監督に昇進したばかりの内田吐夢がいました。内田の誘いを受けた入江たか子は映画界に入り、エラン・ヴィタール小劇場は後に銀幕スターになる逸材を失います。

内田吐夢(1898-1970)
入江たか子の自伝『映画女優』でも、内田からのスカウトの経緯が言及されています。

ショーン・オケーシーの戯曲上演

しかし、野淵昶はエラン・ヴィタール小劇場で一つの偉業を成し遂げます。アイルランドの戯曲家ショーン・オケーシーの1924年の作品「ジュノと孔雀(Juno and the Paycock)」を和訳し、日本で最も早く上演しました。1927年11月25日の岡崎公会堂でのことです。現在の『京都新聞』の前身である『京都日出新聞』に、上演時のレビューがあります。

◇エラン・ヴィタール小劇場がション・オケシ作の「ジュノと孔雀」を出すというので見に行った。演出者の野淵君は同時にこの戯曲の訳者でもある。第二のシングと謳わるる程の原作者のション・オケシはアイルランドの持つ世界的戯曲家として滅切めっきり売出した人だという。…………世の中に「涙の喜劇」があるならば、同時に「笑いの悲劇」があるべき筈だ。
◇「ジュノと孔雀」の一篇は端的に評してその後者に属すべきものだろう。此点を狙ったション・オケシの戯曲は現代人に迫る何物か力強いものがあった。野淵君がこれを選定して上演したのはエラン・ヴィタール近来の成功だ。

岩田鯉喜千『京都日出新聞』昭和2年11月28日  3ページ

エラン・ヴィタール小劇場の活動(後期)

もちろん、エラン・ヴィタール小劇場の活動は成功ばかりではありませんでした。1928年2月に先斗町歌舞練場で上演したシュニッツラー作「結婚式の朝」での出来事です。『野淵昶の生涯とその業績』における映画監督の上砂有弘の回顧によると、幕の降りる瞬間に俳優二人(東坊城恭長と築地浪子)がいたずら半分にキスをしたところ、二人は警察署に留置されてしまいます。野淵たちは深夜まで頼み込んでようやく釈放されますが、厳しい検閲の弾圧を受ける結果になりました。(エラン・ヴィタール小劇場の活動において、検閲を食らった例は他にもありました。)

1929年には、野淵昶は俳優の月形龍之介らと手を組んで商業演劇の演出にも乗り出します。しかし、1930年は「新興劇壇の不振」の一年になります。(『京都帝国大学新聞』第135號で、そのように打ち明けています。)1933年になると、野淵昶はエラン・ヴィタール小劇場の主導権を手放し、商業演劇での活動に重きを置くようになります。

野淵昶、月形龍之介を中心に組まれた劇団 享楽列車の1933年9月29日・30日のプログラムの現物

例えば、野淵昶の主導した商業劇団「享楽列車」は、エラン・ヴィタール小劇場に関わった人物も擁しながら、数度公演を行ないました。以下の出演者リストには、剣戟俳優として名を馳せた團徳麿、溝口健二の妻である嵯峨千恵子(以下では左賀智惠子という変名を使っています)、後年に溝口の映画に出演する金剛麗子の名が見えます。

その上、野淵昶は「享楽列車」の公演により、一人の女優の映画界デビューの契機をもたらしました。星ヘルタという人物です(以下の写真では星ヘヤタという表記です)。

上演プログラムおよび出演陣

産業機械の専門商社であるケー・ブラッシュ商会の社長クルト・ブラッシュの妹である彼女は、エラン・ヴィタール小劇場が1921年にトルストイの「生ける屍」を上演した際、子役で出演していました。東宝に入社すると、『君を呼ぶ歌』(1939年)、原節子主演の『東京の女性』(1939年)、入江たか子主演の『妻の場合』(1940年)などに出演しました。(なお、星ヘルタの夫はゴジラシリーズにも出演した須田準之助でした。)



上演した戯曲の作家リスト

国内外の戯曲家の作品

関西の新劇史をまとめた大岡欽治による調査を参考にすると、野淵昶が選んだ戯曲の作者リストは次のようになります。(海外の作家名の一部につきましては、現在の一般的な呼称に改めています。)

 創立の一九一八年から一九三三年の期間の創作劇をみると、武者小路実篤(七)、秋田雨雀(三)、久米正雄(三)、山本有三(二)、谷崎潤一郎(二)、野淵昶(二)。そして各一篇には、倉田百三、有島武郎、田島淳、菊池寛、松居松葉、岡本綺堂、小山内薫、鳥越道眼、長田秀雄、水木京太、成瀬無極、中村正常、岸田国士が参加、賀川豊彦の小説劇化上演が加えられた。
 チェーホフ(六)、シュニッツラー(五)、ダンセイニ(三)、グレゴリー夫人(三)、シング(三)、ヴィルドラック(二)、オケーシー(二)。各一篇の作家は、シェイクスピア、アンドレーエフ、シュミットボン、エフレイノフ、ゴーゴリ、ストリンドベルク、トルストイ、ゴールズワージー、〔ラインハルト・〕ゲーリング、ロスタン、リラダン、アーヴィング、〔ジュール・〕ロマン、パニョル、マイエルフェルステル、オニール、〔アレクセイ・〕ファイコ、〔ヴィクトル・〕アルドフ、イレツキー、〔オリーブ・〕コンウェイ、脚色物としてドストエフスキー、ヴィッキー・バウムとなる。

大岡欽治『関西新劇史』603ページ
〔〕内の内容は筆者による追加。

ロード・ダンセイニの戯曲

ロード・ダンセイニの戯曲が上演された日に限定すれば、次のようにまとめることができます。

  • 1921年12月15日・16日 京都・岡崎公会堂東館
    ロード・ダンセイニ「忘れてきたシルクハット」
    武者小路実篤「罪なき罪」

  • 1924年10月 兵庫・宝塚小劇場 ※劇場開場の翌年
    ゲーリング「海戦」
    ロード・ダンセイニ「山の神々」

  • 1927年2月17日・18日 京都・三条青年会館
    ダンセイニ「旅籠屋の一夜」
    シュニッツラー「結婚式の朝」
    武者小路実篤「張男の最後の日」

あいにく、感想などをつづった記事は未確認です。ダンセイニアンとしては残念でなりませんが、さらなる調査で何とか発見したいところです。



新劇運動家として活躍する傍らで

教育者としての野淵昶

新劇運動家としての野淵昶が歩んだ軌跡の紹介について上記につまびらかに述べました。が、『京都帝国大学新聞』第113號の7ページに掲載されたコラム「文壇十字路」が暴露するように客入りがイマイチなこともあり、劇団員の稼ぎは常に十分なものではありませんでした。

そのため、野淵昶はエラン・ヴィタール小劇場の活動を続けていくうえで、舞鶴の海軍機関学校種智院大学(当時の名称は真言宗京都大学)、真言宗京都中学校や、同志社専門学校高等商業部で英語を教えました。特に、最後に挙げた同志社でのキャリアが最も長く、1923年から1931年の途中まで続きました。(当時の『同志社新聞』によると、野淵は野球部の顧問を務めたり、新聞委員を務めたりもしました。)

雑誌寄稿・書籍刊行

また、雑誌への寄稿をすることで稼ぎを得ていました。寄稿物には魅力的なものが数多くあり、特段の注目に値するのは1931年に発表されたアイルランドのアベイ座に関する記事です。次に一部を引用しましょう。

 泥炭と馬鈴薯の国、伊太利とともにアメリカ出稼移民の本場としてよりほかには一般にあまり知られていない愛蘭、国中の人口がわずかにロンドンの人口の半数に達するか達しないぐらいの愛蘭は、演劇の上ではどの国にも負けない大きな貢献をして来た。
 ショオ、シング、オニール、ムンロ、オケシィ等、愛蘭が世界に送りだした劇作家を、仮に英米文学から除き去ったとすれば、その戯曲の方面は寂寥をきわめるだろう!
 千九百四年創立以来二十七年間、芸術劇場として一貫健闘して来たアベイ座の歴史も世界的のもので、その活動が人工二十万にも足りないダブリン市を中心としているから小範囲にとどまってはいるが、その功績、影響からいえばモスコー芸術座のそれにも比較されるべきだろう。

『劇場』一月号(昭和六年一月一日発行)75ページ 

野淵は劇作家の具体例(バーナード・ショーシングユージン・オニールC・K・ムンロショーン・オケーシー)を挙げつつ、アイルランド演劇が無視できないほどの影響を英米文学界にもたらしていると主張しています。さらに同じ記事内では、1930年頃のアベイ座の勢いを説明するために、次のようにダンセイニにも触れています。

……最近にはマデン(M. C. Madden)、ギュナン(John Guinan)等の新進作家を始め、閨秀作家オリアリ〔Margaret O'Leary〕が台頭して来た。まさにシング、エーツ、ダンセニ、グレゴリ夫人の活動した第一期黄金時代以来の盛観だ。

『劇場』一月号(昭和六年一月一日発行)77ページ
〔〕内の内容は筆者による追加。 

野淵の認識に、アベイ座の最初の黄金期はダンセイニをも含む劇作家に支えられていたということがあったことが認められる内容になっています。続けて野淵はもう一度だけ、ダンセイニを話題にあげます。

……農業国の愛蘭に農民劇が主潮をしめるのも、ケルトの詩的な神秘的な伝統がエーツやダンセニに多くの戯曲のような神秘劇、怪奇劇に表われるのも、アイリッシュ・ジョークで聞えた世界的皮肉の天分がシング、オケシィ、シールズ〔George Shiels〕の喜悲劇或は喜劇に形をかるのも、革命劇、愛国劇が独立運動の前後に続出したのも、当然のことではないだろうか?

『劇場』一月号(昭和六年一月一日発行)77ページ
〔〕内の内容は筆者による追加。  
ロード・ダンセイニ(1878-1957)
野淵昶が言及したのは、上記の『劇場』の記事内の二回のみでした。

野淵昶は、アイルランド演劇以外の海外演劇も積極的に上演しました。ですが、この演出家は京都帝国大学の同窓生と英文学について話し合ったところ、自分の「専門知識は現代アイルランド劇」という狭い分野に限定されることになった」と実感したという記録を残しています。そこから、野淵がアイルランド演劇への思い入れを強く有していることが確認できます。

一方で、野淵昶は1929年2月に平野書店から、英語を勉強する生徒向けに、次の二冊を出版しています。丸カッコ内は作者名です。

筆者が持っているShort Stories of To-day(第二版)の表紙。
アイルランド文学研究者としては、ジョイスとオフラハーティの作品があるのがグッドです。

One-Act Plays of To-dayは1935年までに第5版を重ね、Short Stories of To-dayは1931年までに第4版を重ねました。なお、後者の書籍ですが、筆者が持っている現物の書き込み(氏名、学年、大学名)から龍谷大学予科で使われていたことが推察されます。また、次世代デジタルライブラリーで、旧制の新潟高等学校(新潟大学の前身)で少なくとも1932年から1935年まで第一学年の英語教科書として使われていたことが分かります。(全国的に英語の教科書として用いられたと推測できますが、詳しい実情については今後の研究次第です。)



最後に

記事冒頭の「あきら」ブレインストーミングから一気にムードを変えて、新劇運動家としての野淵昶という濃い内容をお届けできたかと思います。最後まで読んでくださった方に深謝を申し上げます。

次回の第二弾では、映画監督としての野淵昶を紹介いたします。ロード・ダンセイニの戯曲をも演出したことのある野淵は、ダンセイニの劇で演じた経験もある有名な新劇・新派女優とも相まみえることになります。

ほかにも内容盛りだくさんでお届けしたく思います。よろしくお願い申し上げます。

ヒントとなるパブリックドメインの画像とともに今回は以上です。


※その第二弾はこちらのリンクからお読みいただけます。



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