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私のパパはスティーブ・ジョブズ~『THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記』より、「とある父娘の罪と許しの物語~リサ」をためし読み公開

ジョブズ亡きあと数十年後も、Appleは偉大であり続けることができるのか。あるいは戦後、Sonyやホンダのような世界的なヴェンチャーを次々輩出した日本が、ふたたび輝きを取り戻すことはできるのか、その縁(よすが)を筆者は手繰ろうとしている。

本文より

 没後10年に贈る新たなジョブズ伝『THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記』(榎本幹朗著)が7月30日(金)に発売となりました。

 本書は、Appleをアメリカの象徴Sonyを日本の象徴として取り上げ、互いに切磋琢磨してきた日米のモノづくりの歴史をジョブズの軌跡とともに描いた一冊。YouTuberなど誰もが創作できる〈一億総クリエイター時代〉の今だからこそ、命を賭してモノづくりに打ち込んだジョブズの仕事から学べることは多いのではないでしょうか。

榎本幹朗著
『THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記』

 このたびは本書収録の「和解の章 魂の変容――とある父娘の罪と許しの物語」から、〈リサ〉と題した一篇をためし読み公開いたします。これまでジョブズの私生活の恥部とされてきた長女リサとの関係の真実を、未邦訳のリサ自伝ほか資料をもとに綴ります。ぜひご一読ください。

*  *  *

和解の章

魂の変容――とある父娘の罪と許しの物語

リサ

「秘密があるの」小学校の休み時間、女の子は友だちに囁いた。

「私のパパは、スティーブ・ジョブズよ」

「誰、それ。俳優?」

「パーソナル・コンピュータを創った人」

「へぇ。そうなんだ」

「私の名前を付けたコンピュータも創ったのよ。リサ・コンピュータ」

「聞いたことない」

 時は、一九八六年。まだどの家庭にもパソコンのある時代ではない。八歳の女の子たちは話すほうも、聞くほうもパソコンをちゃんと触ったことがなかった。

「パパはすごいお金持ちで、黒いポルシェに乗っていて、お屋敷に住んでいるの」

「ふぅん?」友だちはじろじろと、リサのよれよれの服を見た。

「絶対、内緒よ。バレたら私、誘拐されるんですって」

 翌日、友だちの友だちが「スティーブ・ジョブズの子! スティーブ・ジョブズの子! やーいやーい」と教室で囃し立て、周りも合唱した。リサは嫌な顔をしたが、まんざらでもない気分だった。

 だがしばらくして、「あなたのパパ、プレイボーイの表紙に載ってたよ。『いちばんセクシーな男』なんだって。あの雑誌、裸が載っててエッチね」と友だちが教えてくれたときには、赤面した。その瞬間、父がヌードになって、薔薇を咥えてポーズをとっている姿が頭に浮かんだからだった。

 リサは父親を知らずに育った。八年間、売れない画家稼業で、繊細な顔立ちが神経質な表情に変わってしまった母とふたりで、住まいを転々として過ごした。家にはテレビもベッドもなく、床に布団を敷いて寝た。

 幼稚園の頃、母が「お願い、お金を送って。ほんとうに困ってるの」と父に電話していたのを覚えている。泣いて言い争う母から受話器を取りあげ、「ママはお金が要るのよ。わかった!?」と言って、幼いリサはガチャリと電話を切った。

 小学校に上がった頃、母は言った。

「パパとママは、いっしょに仏教のお坊さんから禅を習っていたのよ」

「仏教って?」

「インドの教え。仏教ではね、子どもを産もうと決めるのは親だけじゃない。子どものほうも、『この親のところに生まれよう』って決めてやってくるんですって」

「ふぅん……」

 それがほんとうなら、わたしは別のおうちを選び直したい、とリサは幼心に思った。父と母が仲良く暮らす家に……。そんなリサの頰に、母は両手を添えて言った。

「いい? パパはあなたを愛している。ただ、じぶんが娘を愛しているって気づいていないだけ。あの人は、どこかでこころをじぶんから切り離してしまった。でも、いつか必ず、じぶんのいちばん大切なものに気づくわ」

 父が家を訪れるようになったのは、つい最近のことだった。父は俳優のようにハンサムだったが目つきは暗く、傷心で足がよろめいていた。「会社から追い出されたのよ」と母があとで教えてくれた。八歳のリサを見て、父はぶっきらぼうに言った。

「ローラースケートでもやるか?」

「うん」と娘はおずおず答えた。ふたりは外へ出た。

 空は晴れていた。風を頰に受けて、並木通りをふたりで滑っていると、隣の父から視線を感じた。振り向くと、父は慌てて目を逸らした。リサが転ぶと彼はそばで立ったまま、どうしていいかわからないふうで、手を差し伸べなかった。

 父と母は、縒りを戻すつもりはないようだった。それは、余所余所しいふたりの会話を聞いていて子ども心にもわかった。

 ときどき来る母の彼氏はNASAに勤務していて優しかったが、嫌いだった。父と比べるとふつうの大人で、格好よくなかったからだ。夜、母の彼氏が帰ると日記を出して、「私はパパのほうが好き。大好き大好き大好き!」と書き殴った。

 暮らし向きが良くなったのは、父が叔母を連れてやってきてからだった。

「モナだ。おまえの叔母は小説家だよ」

 モナ・シンプソンは母と違って振る舞いも穏やかで、理知的で洗練していた。リサは、叔母に憧れた。じぶんと同じように片親で父親のいない苦しい家庭環境を乗り越え、売れっ子の小説家になったという。

 肉親を探し出すこと。それはジョブズにとって、失われたこころを取り戻したいという無意識の発露だったのだろう。実の妹と出会い、ジョブズは変わりだした。

 ほどなくリサは小洒落た借家に母と引っ越した。テレビとベッドが来て、ぼろぼろのフォルクスワーゲンは、新車のホンダ・シビックになった。そのシビックすら傷がつくと、父は気に食わず、アウディ・クワトロに買い替えた。

「もし大学に行きたくなって、スティーブがお金を出さなかったら私が出してあげる。だから学費のことも安心なさい」と、叔母はリサにこっそり言った。

 ある日、リサは父の屋敷に泊まることになった。

 母は父の援助で、地元の芸大に通うことになった。それはうら若い母に赤ん坊を押しつけて逃げた、父の償いの始まりだったのかもしれない。夜に特別授業がある日は、父がリサをあずかることになった。

 小学校が終わると、校門の前に父の会社からお迎えの車が来ていた。秘書の運転する車はネクスト社へ向かった。ヨットハーバーの隣で、雲と青空をガラスに映したオフィスへ入ると、父がスタッフを集めて言った。

「リサだ。俺の娘だ」

 それは初めてジョブズが人前で、娘を公認した瞬間かもしれなかった。

 それまでも、彼はリサの写真を肌身離さず持っていたが、「この子は俺の子じゃないけど面倒を見てるんだ」とパーティで見せびらかし、謎の慈しみを湛えた顔で、相手を困惑させていた。写真には、ジョブズとそっくりの顔立ちの女の子が写っていた。

 オフィスの真ん中でリサが絵を描いたり、側転したりしていると、ときどき遠くから父が手を振った。急いで、リサも手を振り返した。

 夜がやってきた。「用意はいいか?」と仕事を終えた父が言うと、リサは大きく頷き、ナップサックを背負った。初めて乗る父の黒いポルシェ・コンバーチブルは、これが同じ車かと思うほどラグジュアリーな乗り心地だった。

 学校であったこと、母がやらかした変なこと、父の笑い……。

 憧れだったふつうの父娘の会話が今こそ始まるとリサはどきどきしていたが、車内は無言のままだった。沈黙に耐え切れなくなったのか、ジョブズはテープをデッキに入れ、『ハード・デイズ・ナイト』が爆音で車内に鳴り響いた。助手席と運転席で、父娘は同じように親指の爪を嚙み続けていた。

 鬱蒼とした森のなかに屋敷はあった。分厚い扉を開き、カンッと電灯をつける音が木霊すると、眼前に巨大なホールが寒々しく現れた。家具は何もなく、ペーゼンドルファーの漆黒のステージピアノが中央に鎮座するのみだった。

「ピアノ、弾くの?」

「少しな。あのフォルムは完璧だ。俺は美しいものしかそばに置かない」

 その美しくも寒々しいホールは当時のジョブズの心象風景そのものだったのかもしれない。ふたりは廊下を進んだ。いくつもの部屋が父娘の側面を横切った。

「お部屋っていくつあるの?」リサの問いにジョブズは、

「知らん。数えたこともない」と答えた。

 友だちに自慢しようと思って来たリサだったが、こんなところに一人で住むなんて、とても寂しいのでは、と父が心配になった。

 リビングに着いた。映画でしか見たことがないような食卓だった。お金持ちはどんなものを食べるのだろうとワクワクしていると、木のボウルと野菜ジュースを父が持ってきて「夜飯だ」と、かたりと置いた。ボウルには、干し葡萄と大麦のたっぷりかかった、大量の人参サラダがあるだけあった。

「最高のオリーブオイルだ」と言いながら、父がドボドボとサラダにかけていくのに面食らったリサは「オリーブオイルは苦手」とも言いだせずに眺めていた。

本書掲載図版。1987年頃のリサ(9歳)とジョブズ(32歳)。彼はリサをじぶんの子と認知せず捨てたが、Apple追放後に再会すると父性愛に目覚め、ともに暮らすようになる。“Growing Up Jobs,” Vanity Fair (Sept. 2018)

 無言の夕食が終わると、「水着は持ってきたか?」と父が言った。リサは頷いた。着替えたふたりは、お化けが出そうな真っ暗な廊下を歩いて、プールを目指した。途中、「ぎゃあああ!」とジョブズが突然叫んだ。ふざけたつもりだったのだろう。だがリサは固まって、父をまじまじと見るほかできなかった。

 ふたりが向かったのは、プールの脇の露天風呂だった。お湯に浸かると「ああ」と口から漏れ、リサは笑顔になった。それを見たジョブズも「ああ」と言って、ようやく微笑んだ。

 翌朝、広大な敷地を父と散歩した。緑と、鳥の囀りと、澄明なそよ風が心地よかった。丘に出ると、足元にはパロアルトの街が朝日を浴びて広がっていた。

「チンコだ」と父が突然言った。

「え、何?」驚いて振り返ると、父は街を指差していた。

「パロアルトのチンコだ」指先にはスタンフォード大学の尖塔が聳えていた。

「ああ、うん。そうかも」とリサはどぎまぎしながら答えた。ジョブズの冗談は子ども相手に滑るばかりだった。

 自宅に戻ったリサは、母に訊いてみた。

「パパって昔どんな人だったの?」

「高校生の頃のパパはね、今みたいに強そうな感じじゃなくて、すごく内気でシャイな人だったわ。教室でスティーブが冗談を言っても、誰も聞いてないような感じ」

 それはきっと冗談が唐突すぎるせい、とリサは思った。今でもシャイなままとは、子どもの彼女にはわからなかった。

「ねぇ、パパとママのどっちが告白したの?」

「パパよ。私が夜、美術部で自作アニメを仕上げていると、あの人、ずっと後ろで見ていた。それから『あなたはこの学校でいちばん美的センスがあって、クリエイティヴな女性だ』と言って、ボブ・ディランの歌詞を渡してくれた」

 それは「ローランドの悲しい目の乙女」で、歌詞に描かれた神秘的な憂いを湛えた女性は、詩を受け取った三ヶ月後にディランと結婚した。

「でも、振ったのはパパだったんでしょう?」じぶんが生まれたとき、父が母を捨てた理由を訊くつもりでリサは尋ねた。

「私が振ったのよ。私がほかの人と付き合いだしたの」

「ええっ? ふたりはいっしょに住んでいたんでしょう?」

「そうよ」

「よくわからない」

 母は目を逸らし、考えあぐねていたが、意を決して語りだした。

「私のママ、あなたのおばあちゃんはこころの病気だった。それで毎日、『私が不幸なのはあなたのせいだ』と何時間も私を詰っていた。そんな私を見かねて、パパは家から救い出してくれたの。高校生なのに商売を始めて、そのお金で私と住む小屋を借りて。私を守るためだった」

「ウォズニアックさんとブルーボックスという電話を創って売っていたんでしょう? それがAppleの始まりにつながったって」

「パパは売る係だったけどね。でも、私は彼を捨てた。あの人、ショックで足がふらつくくらい傷ついていたわ……。その後、大学生になって縒りを戻して、ふたりともインドへ行って、パパが会社を創って、喧嘩して、あなたが生まれた」

 母はそこまで告白して、いたずらっ子のような目つきで、娘の目を覗き込んだ。リサのほうは、もしかしてじぶんが生まれたとき、ママを捨てたのはパパの復讐だったのではと、ふと思った。

 それから一年が過ぎた。

 ジョブズは、特に用がないときでも週末、リサの家を訪れるようになっていた。父は当時、真剣に付き合っていたティナを連れてくることが多かった。恐ろしいほど美人なのに、服にも化粧にも全く無頓着で、どこか神秘的な影を持ったティナは、母娘とも波長が合った。

 ティナはリサの憧れになった。ティナくらい美しい人に育てば、わたしはいつもパパのそばにいるのにふさわしい娘になれるのかな、と考えたりした。なにより、ティナを介して、両親が打ち解けて談笑するようになったことが嬉しかった。

「ローラースケートに行こう、リサ。人生は短いぜ」

 毎回、そう言って父はリサを外へ連れ出した。ふたりがいつも行くのは、スタンフォード大学のキャンパスだった。そこは滑らかな舗装でローラースケートにうってつけだっただけでなく、父にとって大切な場所らしかった。

 いつか、母に「なんでパパは大学を中退したの?」と訊いたことがある。母は経緯を教えてくれたが、話の終わりに、「パパに大学の話をするのはやめときなさい。怒るから」と謎の忠告を添えたのだった。

 ローラースケートを履いた父娘は手をつなぎ、キャンパスを走り抜け、街へ向かっていった。秋晴れの空のもと、ふたりが滑り抜けると透き通った風が吹き、黄色の落ち葉が舞い広がった。

「なあ、なんでおまえと手をつないでいるか、わかるか?」

「そうしなきゃいけないから?」

 リサは、「親子だからだ」という答えを期待した。

「違うな。車が突っ込んできたら、おまえを脇へぶん投げるためだ」

「嫌ぁよお!」リサが怒る顔を見て、ジョブズは高笑いして言った。 

「肩に乗ってみるか?」

 ローラースケートで肩車? リサは怯えたが、ここで断れば何かが壊れるような気がして「うん!」と元気よく答えた。娘が肩に乗ると、スケートを履いたジョブズはよろめいた。リサは上で一生懸命、バランスをとった。そしておずおずと滑りだし、しばらく走ると「うわぁ!」と言って父は倒れた。

 もう一度、挑戦して、今度はもっと長く走ったが、石のアーチをくぐるとき、上のリサが「きゃあ!」と叫んで、ふたりでまた転んだ。何度もバランスをとって、進んで、倒れて、日の暮れる頃には、父娘はすり傷だらけになっていたが、ふたりはいつまでも笑っていた。

「パパがあなたに夢中になったのは、あの頃からだわ」と、のちに母はリサに言った。「あの日、パパはあなたに恋したのよ」

 ティナが恋人なのに、わたしも恋人? 娘なのに? 

「意味がわからない」とリサは返事した。「パパもときどき、意味がわからないことを言う。『俺は四十代で死ぬ。そのときは林檎の樹の下に埋めてくれ』って」

「それは昔から、私にも言ってたわね。高校生の頃から、予言者みたいにじぶんの未来を語る癖があった」

「未来ってどんなこと?」

「俺は将来、有名になる。そしてじぶんを見失うから、今度は君が助けてくれって」

「じぶんを見失うって何?」

「こころを見失うってことよ。モラルをなくすってこと!」母は怒ったように答えた。「でも、私にはどうしようもできないじゃない」と頰杖をついた。

 クリスアンにとって、ジョブズがこころを見失ったのは、じぶんと赤ん坊のリサを捨てた瞬間だった。それなのに、どうして私があの人を助けなければならないのか。

「きっと、あの人のこころを救うのは、私のほかの誰かよ」と母はため息をついた。

 パパと結婚する人かしら。ティナだとみんなで仲良くできるからいいけど、と九歳のリサは考えた。

(この続きは、好評発売中の『THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記』にてお楽しみください)

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《書誌情報》
『THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記』
榎本幹朗=著
ISBN: 978-4-86647-176-1
四六・並製・568頁 本体2,300円+税

《内容紹介》
スマートグラス、自律走行車、メタヴァース――
ポスト・スマホ時代の“次の大物”(The Next Big Thing)を掴み取れ!
没後10年に贈る“新ジョブズ伝”

何かをつくる全ての人が学び続けるための、唯一無二のストーリー
――藤井保文氏(株式会社ビービット 執行役員CCO / 東アジア営業責任者)推薦!

《おもな登場人物》
ジョン・ラセター&エド・キャットムル、ジェフリー・カッツェンバーグ、宮崎駿、手塚治虫、孫正義、久夛良木健、知野弘文禅師、平井一夫、ジョナサン・アイブ、ティム・クック、リード・ヘイスティングス、スティーヴン・ウルフラム、Siri、愛娘リサ ほか

《収録内容》
・テクノロジーと超一流アーティストの関係
・トヨタ式で生み出された『トイ・ストーリー』
・ジョブズの最終目標は、人類の美意識を変えることだった
・iPhoneにとどめを刺された「電子立国」日本
・「眼」を得た機械たちのカンブリア爆発
・悲願のターンアラウンドを達成した平井Sonyとジョブズの共通点 ほか


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