足の折れたバッタ 

「笑えるし、いいこともあるし、わたしはだいすきなことがいっぱいなの」

3歳の息子は、虫を見つけるのが得意。

落ち葉の中で丸まったダンゴムシや、木の高いところでジンジン鳴いているセミ、ヒラヒラと屋根を越え天空に飛んで行った蝶々まで、なんでも見つけます。

最近は雨が続いていたのですが、ごおごおと音がするくらいの激しい雨の日に、窓から薄暗い外を見て「あれ、あそこにクモの巣ある!」と言うので驚きました。

わたしが見ても、土砂降りの雨とびちゃびちゃはねる泥、風に揺れている木が見えるだけで、とてもクモの巣なんて見える状態ではありません。

「あれ、あれだって。お母さん見て!」

息子はいつも一生懸命教えてくれるのですが、目の悪いわたしには、なかなか見えません。
それでもわたしに知ってほしくて、息子はあれ、あれ、と精一杯小さな指をのばします。

「ごめん。お母さんわからないや」

「なんで、あそこの木、あれ、あれだって」

あまりにも言うので、最後にはわたしが耐えきれなくなります。

「あー、あれね、わかった」


…本当は、見えていません。


***


今日は、バッタを見つけました。
ショウリョウバッタという、斜め上に頭のとがった、スマートな体がちょっと反ったような形の、よく草むらにいる緑色のバッタです。



ショウリョウバッタの成虫は梅雨明けごろから発生するらしいので、もう梅雨明けです。
不思議なことに、生き物たちは長期予報なんかなくても、時期になると申し合わせたようにこの世に出てきます。てんとう虫がどんなに寒い冬でも春早くから出てくるように、ヒガンバナがどんなに猛暑でも秋の彼岸に咲くように、ショウリョウバッタもまた、誰に教わるでもなく梅雨明けを察知して出てくるのでしょう。

草むらで、「あ、バッタ」

いつものように、最初はわかりませんでしたが、そのバッタはゆっくり動いていたので、その後すぐにわかりました。

持っていた「たも」(虫取り網)をかぶせて、コンクリートのところに出してみます。

「あっ」

このバッタ、跳びません。よく見ると、一番太くて立派な後ろ足が一本折れていて、足を引きずるように、ズズ、ズズ、と歩いています。

「おしり、痛いみたいね」

と、息子。

確かに、足が片方折れているので、お尻を引きずって歩いているように見えます。

「足が片方ないね。おケガしちゃったみたい」

息子とわたしは、しばらくそのバッタを眺めていました。
バッタは、なんとか草むらに戻ろうと、ズズ、ズズ、とお尻を引きずり、無機質なコンクリートの上を這いずり続けています。

もう長くはないな、と思いました。

この調子で歩いていたら、きっとエサ場の草むらまで戻るまでに、力尽きてしまいます。
戻る途中に、鳥に食べられてしまうかもしれないし、誰かに踏まれてしまうかもしれない。猫だってよく、トカゲや金魚をおもちゃにしているから、バッタも何かの餌食になるかもしれません。

「バッタさん、がんばれ、がんばれ」

息子が応援を始めました。わたしも一緒に応援しました。
でも、バッタは本当に少しずつしか、動きません。

わたしはいたたまれなくなって、もう一度そのバッタをたもに入れて、草むらに戻しました。

「何したの?」
「草むらに、戻してあげた」

「ありがとうって言うかな」

バッタが?
運んでくれてありがとうって?

うん、言うかもしれないね。だけど…。
その先は言いませんでした。もしかしたら、息子は、わかっているかもしれません。このバッタの命がもう長くないことを。

だけど、わたしはそれを息子に言う勇気がありませんでした。

思えば、虫の命がはかないことなんて、みんな当然のようにわかっています。
その姿はろうが溶けてだんだんと細くなっていくろうそくの火のようで、応援なんてしても、結果は変わらない。

それでも、応援してしまう。

3歳の息子がそこまで考えていたかどうかはわからないのですが、わたしは儚くか弱いものを自然と応援してしまった息子に、限りない優しさと愛しさを感じたのでした。



何かを応援することでしか、自分を元気づけられない人がいます。

自分で自分を励ますのが下手なのです。

落ち込んだり、嫌になったり、自信がなくなったりした時、普通なら、誰かに励ましてほしい、認めて欲しい、と思うのでしょうが。
そういう時ほど、わたしは誰かを(何かを)励ましてしまうクセがあります。

今にも命果てそうなバッタを応援しても、現実は何も変わりません。
ましてや、バッタから「ありがとう」とか、何かの見返りがあるかと言えば、全くない。

それでも、なぜ応援するのかと言えば、自分を元気づけたいからです。
相手から何かの反応があれば、もちろんそれはそれで嬉しいのですが、自分以外の何かに気持ちを向けると、その気持ちが鏡のように反射して、自分に跳ね返ってくるような気がします。

つらい時に人を励ましてしまうのは、自分が励まされたいから。

人を励ます一方で、わたしは自分の心を直視するのが怖いです。自分の心の中を覗くと、闇に落ちてしまいそうで。さらにそれを言葉で表現することも、苦手だと思います。

それでも書くことをやめないのは、何かについて語ることで、自分の内面と間接的に向き合い、整理する作業をしているからではないか、と最近思うようになりました。

自分一人ではできないことを、周りの力を借りて、なんとかやり過ごしているのです。



***



わたしはいつも、「じゃない」側の人間でした。

可愛くてモテモテのあの子「じゃない」
成績優秀で表彰されるあの子「じゃない」
みんなから人気があって話しかけられるあの子「じゃない」

夜空に浮かぶ月でもなければ、星でもない。
ましてやそれらを輝かす太陽でもない。

暗闇を見つめることで光を感じるタイプだから、光を直視するのが苦手です。
だからわたしは自分のことを書くよりも、多分、誰かについて書いていたり、何かについて書いていたり、人や何かを応援したりする方が向いている。

不思議と自然に、そう思います。


***


最近いろいろあってちょっと大変だなと思っているんですが、今日、息子と2人で足の折れたバッタを応援していたら、自分の状況を忘れて、なんだか温かい気持ちになりました。

何かを応援するって、いいことだな。

わたしは何かを応援しながら、自分を守っているし、自分を元気づけているんだな。

自分頑張れって、言ってるんだな。

しみじみするわたしの横で、3歳の息子は、クモの巣を見ておはなしを始めています。
どうやら、クモになりきって話しているようです。


………

笑えるし、いいこともあるし、わたしはだいすきなことがいっぱいなの
ちょっとあそんでくれる? っていうと、いいよっていってくれるでしょ だからうれしいの

がんばれ、がんばれっていうでしょ、

だからおおきいくものすつくれるんだよ、わかるでしょ、ね?

だからくものすをつくりはじめてね、やぶってね、つくるの、

いろんなしゅるいのくもさんがいるでしょう

やさしいくもさんも

やぶったらね、こうどっかにね、ぶらさげるの

たのしいよ

最後ありがとうっていうの、じょうずにつくれたねっていうと、ありがとうっていうの

……


支離滅裂なところはあるけれど、息子の物語には、ネガティブなワードが一言も出てこない。
その目に映るのは、ハッピーで、やさしいせかいだ。

息子は、本当にクモさんが好きなんだな。
そして、応援される側の気持ちに、なってみたんだな。

息子は、バッタを応援して、今度はクモになって感謝している。

足の折れたバッタはわたしたちに「ありがとう」って言わないけれど、
わたしはそんなあなたに「ありがとう」って言うからね。

これからも、好きなものに、がんばれ、ありがとうって言って、生きような。


「笑えるし、いいこともあるし、わたしはだいすきなことがいっぱいなの」


こう言って、また生きていこう。

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