見出し画像

ひじきかあさん煮定食

「おいしいですね!」「おかわり!」

アニメの大食いキッズが言う。何を隠そう大人気アニメドラゴンボールの大食いシーンである。長男6歳は食い入るように見ている。十分士気を高めたところで、いざ、出陣。

「今日は長男くんの好きなミートソース・スパゲティだよ」

長男は食に興味がない。興味がないと言うより、世の中にはもっと面白いものがたくさんあるらしい。
食事と関係ない余計なものは置かないようにしている。しかしそこは食卓。お茶のボトルや、メモや、ティッシュ、箸や皿、全て遊び道具になる。そして、本当に何もなくなると、自分の手を開いたり閉じたりして遊んでいる。うん、うーん、手は…手はね、しまえない。それでごはんを食べるから。余計なものなどない。すべてがきみとぼくとの

と、歌いそうになるけど、違う。ここはごはんを食べるところだ。

そもそも椅子に座らない。機関銃のように喋り、食べはじめるまでに長い時間を要するのだが、食べはじめたからと言って油断はできない。すぐに他のものに目移りし、手も口も違うことに使い始める。足はバタバタさせて弟と机の下で蹴り合ってきゃっきゃしている。恋人か。

箸は踏切の真似をするためにあるのではありません。食器を叩いて音を出すのは食事中はやめてください。なぜ食事中にポイポイものが落とちるのですか。気づくと何らかの液体がこぼれていて、いつも床を拭いている。

落とされた時にすぐチェンジできるよう、箸もスプーン・フォークも3セット用意した。まごまごすると、相手にとっては格好の「食べないで遊ぶ」言い訳となる。わずかな隙も許されぬ。ガシャン、はいチェンジ。ガシャン、はいチェンジ。こぼした。はい拭いた。ふりかけ。はいどうぞ。提供するスピードだけなら、わんこそば屋さんになれる。

……

そんな長男も小学生になり、何とかかんとか、椅子の上に存在することはできるようになった。この際姿勢は問わない。問うてる場合ではない。本当は問いたいけど。

長男、生きることが楽しい。

溢れるパッションを抑えられない。今すぐ冒険に行かねばならない。クレーン車を、ロープウェイを作らねばならない。電車のお話を考えなければならない。ゴーグルで水中を見なければならない。朝顔の観察と、ミニトマトの収穫と、あとピーマンも。それから自転車乗れるようになったから知らせたい。みんな見て。やあおはよう。なんでやねん。道ゆく先でいちいちつっこみ、いちいち話しかけ。世界は僕のためにある。

さあ飛び出せ、未来は明るい!!!!

…と比喩ではなく本当に飛び出すので、親としては制止せざるを得ない。

この楽しい世界を邪魔する奴がいる。せっかくいい感じだったのに、それをやめてごはんを食べろという。なんてわからずやなんだ。しかもくどい。一回わかったって言ったのに何回も言ってくる。ベーだ。

ごはんは、食べない。

……

自分のやりたいことに忠実すぎるオレ流の人生哲学を貫いた結果、長男は6歳にして痩せて小さく、体力のない立派な小学生になった。ズボンや水着は身長に合わせて買っても、すぐにずり落ちる。半ケツは、いけない。履いていてもちっとも大丈夫じゃない。体力はないのでテンションでひたすら押し切っている。

母であるわたしの挑戦は続く。

夕食は、ミートソーススパゲティに、ひじきがつく。カレーライスにもひじきがつく。ハンバーグにも、麻婆豆腐にも、おうどんにも、ひじきがつく。これが世に言う「ひじきかあさん煮定食」である。
とにかくタンパク質を摂ってほしいと、ひじきには大豆や高野豆腐やにんじんを入れた。ひじき煮は、いい。ミネラルとタンパク質が摂れるから。

長男はそこまで好きではないひじきを、しかし大人の熱意(圧力)に負け、最初にスプーンで口にする。好きなものを最後に取っておくタイプだ。

最初は大げさに顔をしかめたかと思えば、口に入れて突然「いいね!」と親指を立てる。「なんか美味しい気がしてきた」。そうだろう。彼は何でもドラマ仕立てである。
最初は苦手だったものがだんだんおいしく食べられるようになることを、大人になると思っているらしい。「なんかー、最初は苦手でちょこっとしか食べられなかったのにー、こんなに食べちゃって、僕はもう大人みたい?」。彼は毎食大人へと近づいている…はずである。

ひじきの茶番は繰り返される。

「またひじきついてる」

……

独身時代は昼も夜もないほど働いていて、日の光を浴びることがなかった。朝暗いうちに出勤し、夜暗くなってから帰る。寂しい独身女が深夜に時折見て涙を流していたのがホクレンのCM動画だった。

「今日、くちにするそのおいしさが、あなたの元気になりますように」

何のあてもなく働いていたわたしは、この食卓の光景を自分で作りたいと思った。叶うなら今までのキャリアなど全て捨ててしまおう。それで、結婚が決まった時、本当にスパーンとそれまでの仕事を辞めた。

幸せを、手に入れたいと思った。

息子たちが誕生し、4人家族になったわたし達だが、食卓の様子は想像していたものと随分かけ離れてしまった。これはこれで楽しいと言いたいのだが、毎食「食べて…」と祈るような心持ちでいる。最後はお決まりの言い合いと収拾のつかなさで、わたしは散乱した部屋の片隅でうずくまる。

……

それにしても、何にでもひじきがつくというのは、何にでもチャーハンがついてくる中華料理屋さんみたいだ、と思った。噂に聞いたそのお店は、天津飯にもチャーハンがつく。チャーハンにもチャーハンがつく。餃子頼んでサービスでチャーハンついてきたらどっちがメインかわからんな。
うちはひじきにひじきは付かない。しかし、夫はたまにダブルひじきを食べているから似たようなものじゃなかろうか。

「何にでもチャーハンがセットでついてくる店があるんだって」
「それって」
「チャーハンにもチャーハンがつくらしいよ」
「マジか」

長男がもう少し大きくなったら、友達とこんな会話をするのだろうか。

「あ、それうちのオカン。うちのオカンおかずに絶対ひじきつけてくる」
−ひじきいいじゃん、健康的じゃん。

「それが麻婆豆腐にもラーメンにもカレーライスにもひじきなんだって。合わんって」
−オカンってそういうとこあるよなw

「とりあえずひじき食っとけば健康になれると思ってる」
−メニュー考えるのめんどくさいのかもな。
「多分それはあるw」

あるある。というか、愛やん。
これ、オカンの愛やん。

……

そんな会話を想像して、ちょっと泣けた。もしかしたら、ひじきを食べさせてくるオカンはずっと鬱陶しいままかもしれない。食べさせられすぎて、ひじきが嫌いになるかもしれない。いや、毎日楽しむのに忙しい彼は、そんなことすら忘れてしまうかもしれない。ひじきババアの出番は、一生こないかもしれないから、せめてここに書き残せてよかった。

だけど、このひじきババアが(実際の効果はともかくとして)、小さくて痩せてて病弱な息子を何とかして丈夫にしたいと祈るような気持ちでひじき煮を作り続けた日々は、必ず息子の身体の一部をつくるし、わずかでも息子の人生の一部になる。

「今日口にするそのおいしさが、あなたの元気になりますように」。風景は違えど、想いは同じ、と信じたい。

……

「やっと、食べられる。いろんなもの食べたいなあ、と思った時には、食べられんでねえ」と、年老いた母が言った。

母は若い時からずっと仕事と子育てで忙しく、なかなかゆっくりできなかった。わたしが結婚し、やっとお店で好きなものを食べられようになった時、もうそんなに量が食べられないのよ、と少し寂しそうに笑った。

憧れ、ということを考える。

家で仕事と育児、介護に明け暮れていた母は、相当な世間知らずだ。そのせいか、巷に溢れるチェーン店に対しても並々ならぬ憧れがある。あるカレーチェーン店のことも「一回、食べてみたいと思ってるのよ。だって、カレー専門店でしょう?どんな美味しいカレーなんだろうって。懐かしい昔のカレーライスなのかなあ」と目をキラキラさせて話す。
わたしはその度に言う。「確かに美味しいけれど、うーん。一生に一度は口にしたいっていう感じじゃなくて、もっとカジュアルなものだよ」。

母はまだ、その味を知らない。

血は争えないというが、わたしにもよく似た憧れがある。餃子チェーン店で餃子を食べること。野菜山盛りの二郎系と言われるラーメンを食すこと。立ち食いそばにも行ってみたい。「だから今度、思い切って行ってみようと思ってるの」。いつか男性の後輩に飲み屋でそんな話をしたら、わたしが母に言ったことと同じことを言われた。

「うーん。確かにうまいし、俺もよく行くし大好きっすけど、わざわざ行くところじゃないですよ。移動のついでとか、用事の合間とかに食べるのがちょうどいいっす」

そうかあ。
その後何年経ってもそんな都合の良い用事や移動に出くわすことはなく、「いっぺんやってみたい」はわたしの中でずっとそのままである。

ふと、思う。きっと憧れのいくつかは、ずっとわたしの中で憧れなんだろうなと。もし、将来わたしに余裕ができて、都合良く都合の良い用事ができて、さあやってきました!山盛りラーメンです!!!と目の前に出されたら、果たしてわたしは太刀打ちできるだろうか?歳を重ねたわたしは、見るだけでお腹いっぱいにならないだろうか?


そんな時言うのだろう。

「やっと、食べられる。でも、食べたいなあ、と思った時には、食べられんねえ」と。

……

長男が成長して、「お母さんがうざいほど食べさせてきたあの『ひじき煮』が食べたいなあ、と思った時、わたしはそこにいないかもしれない。それは、少しだけ寂しくもあるけれど、ひとつ、どんな記憶でも彼の中に残ったら、「ひじきかあさん煮定食」は明日の彼の一部になる。

「どうしてもひじき煮が食べたいんだ」と誰かに話したら、「そんな特別な食べ物ちゃうよ」って、言われてしまうかもしれない。そうかあ、って思いながらもやっぱり「ひじきかあさん煮定食」が彼の中に存在していてくれたら、わたしはとても嬉しい。

食べたいと思う時には、食べられないかもしれない。ホクレンのCMに蛇足と承知で付け加えるなら、こうだ。
「食べたいと思う気持ちが、いつかのあなたを支えますように」

……

夢は、憧れは、必ず現実になるとは限らない。勘違いしたまま、憧れのままであることもある。そして、現実になりそう、できそうになったその時には、状況が変わってやっぱり叶えられなかったりする。それらの夢や憧れは、持つだけ無駄とは思わない。たくさんの「叶えられるかどうかわからない」ものを抱えて生活することが、わたしを毎日生かしている。

「おいしいですね!」「おかわり!」
そんな声が飛び交う日が来るといいなと思いながら。


今日もひじきをたっぷり炊いた。


(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?