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おばばちゃんの命日2022

この間の21日で、おばばちゃんが亡くなって丸6年が経った。おばばちゃんというのは母方の曾祖母のことである。

前の週の日曜日には、家族だけでこじんまりと、おばばちゃんの7回忌とおじじちゃんの33回忌の法事を行ったと聞いた。旦那さんが死んだ日の夜を選んで死んでいったおばばちゃんにとって、旦那さんと2人で供養されるおそらく最初で最後の法事だった。

おばばちゃんがいなくなってから7年目の、1年で1番寒い季節。
生まれたばかりの赤ん坊が次の春には小学校に上がるのと同じだけ月日が流れたということだ。

赤ちゃんは小学生に成長するけれど、私は高校1年生からなにも成長していないような気がする。こと、おばばちゃんに関しては余計にそうだ。ずっと、あの頃の、おばばちゃんが生きていた頃の、おばばちゃんと過ごした日々のことを夢に見る。

おばばちゃんの命日の夜、自分で作る気力がなくてスーパーで買ってしまったけれど、おばばちゃんと一緒に作ったお稲荷さんを食べた。
最近寝つきが悪くて細切れにしか眠れないので早く床に着いて、その夜はおばばちゃんの夢を見た。

私の母は私が生まれる前から、潰瘍性大腸炎という国の指定難病に定められている完治の治療法が存在しない病を患っている。薬で体調を調整するしかないし、薬との相性もある。良くなったり悪くなったりを繰り返すしかなく、合併症の可能性もあるし、両手で数えきれないくらいの回数入院した。母の体調が崩れる度、保育園に通い始めたくらいの幼い私は悲しくって怖くって泣いた。母が1番つらいのだけど。

命日の夜に見た夢は、その頃の夢だった。
建て替えたばかりの母の実家のリビング。ストーブの近く、花柄で六角形のいつもの小さな椅子におばばちゃんが座っていて、3、4歳に見える髪の短い小さな私が、おばばちゃんの膝の上に頭を乗せて泣いていた。「ママがいなくて寂しいの」そう言って駄々をこねるように泣く小さな私の背中を、おばばちゃんが撫でてくれていた。

保育園に上がる前の私は、ほとんど母の実家で育ったと言っていい。朝食を食べたら母の実家に行っておばばちゃんにべったり甘えて一日中過ごし、仕事を終えた母に連れられて家に帰っていた。大人が「おばばちゃん重くて大変だよ」と私を抱き上げようとしても「やだ!おばばちゃんがいい!」と言っておばばちゃんの背中にしがみついて離れなかったらしい。保育園に上がって小学校に上がっていくら手がかからなくなっても、母が入院すると土日は母の実家に預けられた。

赤ちゃんの頃からさんざん面倒をみてくれて、仕事で忙しい父の、入院して離れて過ごさなければならない母の代わりに、私の寂しい気持ちを埋めてくれたのはおばばちゃんだった。

私とおばばちゃんしかいない2人だけの甘やかな時間に、おばばちゃんは沢山の話を聞かせてくれて、生活に必要な色々なことを教えてくれた。

その中に、「2.26の足音を聞いた」という話がある。
大正生まれのおばばちゃんは、10代の頃上野の飴屋さんに奉公に行っていた。家の中で自分が1番に起きて、毎朝お店と店前の掃除をするのだという。寒い朝に頑張って起きていつものように店内の掃除をしていると、外で軍靴の足音がする。男の人の声がして、ザッザッザッと沢山の人が勢いよく通り過ぎて行った。怖くてとてもじゃないけれど戸は開けられず、足音が過ぎ去るまでじっと息を潜めていたという。

「戦争はおっかねんだ。人がいっぺこと死になさった。あんげことするもんでね」
「平和な時代に生まれてきて、いかーったねぇ」
おばばちゃんはそう言って私たちに教えて聞かせた。

それが今、戦争が始まった。
「戦争が始まった」なんて、そんな文字を自分が打つ日が来るとすら思っていなかった。

大学2年の夏休み、研修の一環で沖縄の米軍基地に行ったことがある。爆撃訓練を少しだけ体験することになって、専用の部屋に入った。光が何一つない真っ暗闇にされて、カウントダウンの後、ものすごい大音量で爆撃や銃の音が鳴った。きっと10秒程のほんの短い時間だったけれど、恐怖で友達数人と抱き合ってうずくまった。とんでもない恐怖だった。
そこのキャンプには、私たちより年下のまだ男の子と呼んでいい年頃の子も沢山いた。大学に行くお金を貯めるだとか軍に入ると奨学金がもらえるだとか詳しいことは覚えていないけれど、そういう理由でこんなに怖いことを擬似的にでも経験するのかと驚いた。実際に戦地に赴いた軍人の中には、サバイバーズ・ギルドなど心に深い傷を負う人が多くいる。想像もできない恐怖だろう。
でも、私たちが体験したのは実際とは比べ物にならないらしい。実際はその何倍も何倍も大きな音で、衝撃で、いつ起こるかもわからない。

私には想像もつかない。
来月どうやって食べていけばいいかもよく考えつかないまま、何をする気力も湧かずに一日中ずっと布団にくるまっている私は、ウクライナの人々がロシアの一般国民が何を感じるのか歴史の背景もよく知らないで何もできやしない。

画面の中にある光景が現実の世界であることが、とても切ないだけだ。 
小さな子供や若者、幸せなカップルや家族、穏やかに過ごしていた老人も病人も、想像を絶する状況にいる。もうすでに何人もの命も失われた。
おばばちゃんの言葉を思い出している。「戦争はおっかねんだ。人がいっぺこと死になさった。あんげことするもんでね」

高校1年生から何も成長していない。私は無力だ。誰も傷ついてほしくない。誰も離れ離れになってほしくない。そう思っても何もできなかったし今も何もできない。

自殺と戦争で死ぬのとでは全然違うベクトルの話だけれど、突然の別れはとてもとても寂しくつらいものだ。6年経っても何年経ってもきっと消えない暗い過去になる。私が今でも雨の夜が怖いように、新聞報道を読んでフラッシュバックに動悸がするように、遠い国の誰かが傷ついていて、いつか落ち着いた後にも傷つき続けるのだと思うと、そんな人が沢山いるのだと思うと、なぜだか涙が止まらない。

こんなときは、おばばちゃんに会いたくなってしまう。泣いている背中を撫でてほしい。何をしたって会えるわけではないとわかっている。寂しくて寂しくて、何かにつけて思い出して泣くのは甘ったれている。赤ん坊がランドセルを背負うようになる歳月、ずっと変わらず、いや年々ひどくなるようにこんなに恋しいのはなぜだろう。寂しい寂しいと小さな子供のように駄々をこねているだけなんじゃないかとも思う。

こんな自分が嫌になる。家族の誰も、私のようになっていない。みんなそれぞれ自分のやるべきことをやっている。しっかりと生きている。だけどおばばちゃんのことを忘れるのなんて絶対に嫌だから、私はきっとこれからも、こうして時々不調を起こしながらもどうにか生きていく。
家族に、おばばちゃんがいなくなったときの悲しみをもう一度味わわせることなんて、とてもじゃないけれどできないし。そもそも私怖がりだし。死んだところで会えるかわからないのに、今死んだら自分のことは棚に上げたおばばちゃんにひどく怒られることだけは目に見えているし。

だから、生きていくのは過酷だしとっても悲しいことが起きたりするけれど、人生はそうつらいものではないと信じて、とりあえず生きてなんとか生活していこうと思う。

戦争がこれ以上悲しい結末を迎えませんように。一刻も早く事態が収束しますように。
そして、幼い私の寂しさを埋めてくれたおばばちゃんの優しい愛情のように、傷ついた人々に寄り添うものが、支援でも医療でも祈りでもいいから、出来るだけ早く多く長くありますように。

出てきてほしいときに限って夢に出てくれないけれど、こんな気持ちのときはおばばちゃんの夢が見たい。

可愛がって育ててくれてありがとう。
ずっと大好きだよ。

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