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私のおじさん

私の誕生から20余年、おじさんが私の名前を呼んだことは一度として無い。私を指す呼び名はなぜか、今から半世紀ほど前のヒット曲『喝采』で有名な ちあきなおみ だ。




大学進学で一人暮らしを始めるまで、私は母と連れ立って月一でおじさんに会いに行っていた。おじさんは、山を越えた漁港近くの高台に住んでいる。どこにも寄らずに向かったとて、うちから車で片道1時間かかる。


長い道中、母の軽自動車の助手席で塩味の堅〜いおせんべいを食べる。唇が荒れているとヒリヒリしてしょうがないけれど、好きな味だ。

カーステレオからは、母が好きなユーミンや聖子ちゃん、今井美樹のCD音源が絶えず流れている。母と二人でそれを大声で歌うのが好きだった。
おかげで親世代の懐メロを沢山知っている。ユーミンのバラードアルバム『sweet, bitter sweet』の収録曲は全て歌詞を見ずに歌えるけれど、さすがに『あの日にかえりたい』を小学生が歌っていたと思うと笑えてきてしまう。青春の後ろ姿知らんだろ。

うちも割と田舎だけれど、うちから離れれば離れるほど田舎になるので、途中のスーパーでおやつを買っておく。おじさんへの手土産と私と母が気になる新作なんかを、ああでもないこうでもないと吟味する時間は楽しい。おじさんはチョコパイが好物だ。

時々、おやつの他に洋服も買って行く。自分のでなくてもショッピングはワクワクするものだ。しかし、おじさんはデザイン性より着心地重視派。ガサガサ、チクチクしているのは受け付けないので、そこだけは慎重に。シンプル イズ ザ ベストだ。

住宅地を抜けて、田んぼの真ん中を貫く農道を抜けて、競輪場を越えて、山を越えて、ほぼ崖の渓流を通って、海が見える。
前方を塞ぐ緑の山の上の方、杉と思われる木々から水蒸気が立ち昇って山から雲が生まれるのが、とっても不思議で神秘的だ。高台の道を並走するように続く海はどこまでも広い。私はその景色を助手席から眺めるのが好きだった。
海が見えたらもうすぐそこ。高台の白い建物が目的地だ。



小さい頃はおじさんとよく遊んだ。
簡単な手遊びをしたり、お絵かきをしたり、折り紙を折ったり。二人で描いた絵は、おじさんの部屋の壁に飾ってくれていた。

中でも私は、遊歩道を散歩するのが好きだった。母とおじさんの真ん中、二人に片方ずつ手を取られながら歩く。秋には、綺麗な落ち葉やどんぐりや松ぼっくりを拾って帰っては画用紙に貼り付けて、それはまたおじさんの部屋の壁に飾られた。

おじさんの友人には、芸術的なちぎり絵を描く人や電車の車掌さんのモノマネが上手な人がいて、見ているととても面白かった。

遊び疲れて用事も終えた夕方。帰り際、おじさんは玄関に続く長い廊下から「バイバイ」と手を振ってくれる。

おじさんと別れた帰り道、ごくたまに、海の近くの魚市場で母がイカ焼きやホタテ焼きを買ってくれた。夕飯が食べられるようにと、二人ではんぶんこして食べるのが好きだった。




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おじさんは、穏やかで落ち着いていて優しい人だ。基本的に無口で自分から話しかけることはないが、話しかけると簡潔に答えてくれる。
それに、おやつを食べたいときは「早く食べたいんだけどな〜〜」という素振りを隠せないところが可愛いと思う。



そして、おじさんは私を ちあきなおみ と呼ぶ。
ちなみに、私は彼女にまったく似ていない。



おじさんのことも、おじさんに会いに行くことも、その不便な長い道のりでさえも、思い返せば愛おしいものだ。







おじさんと最後に会ったのは去年の2月20日。
帰省の折、「久しぶりにおじさんに会いたい」と母に伝え、時間を作って二人で会いに行った。

スーパーでおじさんへのお菓子を吟味し、遠回りして大きなショッピングモールで服を買った。と言ってもユニクロだけれど。
おじさんは大抵いつもスウェットを着ている。私はもう少し色味があるといいと思い、綺麗な色の靴下を選んだが、パステルカラーは逆に浮いてしまうかもしれないと買ってしまってから思った。

母の新しい車にはテレビが付いている。ユーミンのCDをかけながら二人で熱唱することは、もうなかった。代わりにおじさんの話をした。

母は嬉しそうに何度も同じ話をした。
「この間、初めて名前を呼んでくれたの」
何度も何度も、心底嬉しげに興奮気味に話した。
当然私も嬉しかったし、それと同等に驚きもした。私にもいつか、ちゃんと名前を呼んでもらえる日が来るのだろうか。





そんな話をしていると、目的地が見えてきた。

綺麗に剪定された木々と芝生に囲まれたところ。門を潜ると、白壁にレンガ色の屋根の建物が点在している。建物群の一つ、おじさんが住んでいるそこのロビー前に、車を停める。自動ドアの上には看板が。

「コロニー 高齢期更生部」

コロニーとは、郊外に建設された障がい者施設のことだ。ノーマライゼーションが進展する以前の隔離政策時代に建設された施設だが、現在でも入居している人は多い。



私は、重度知的障がい者の家族だ。

おじさんは重度の知的障がい、自閉症、てんかんを持っていて、等級でいうと1番重いクラスに入る。支援学校を出てから何十年もコロニーで暮らしている。

家族と書いたが、おじさんは私の父の従兄である。伯父さんとも叔父さんとも小父さんとも書けないので、やっぱりおじさんはおじさんだ。

母はおじさんの成年後見人をしている。成年後見人というのは、自分で契約などの意思決定をすることができない人の代わりに、その人の財産管理をしたり福祉サービスを滞りなく受けられるようにしたりする人だ。家庭裁判所に成年後見人として選任されると、代理権と取消権が付与される。だから深刻な家庭の事情はないのだが、うちには家裁からの手紙がよく届く。
そういうわけで、コロニーの談話室で母が"おじさんのお仕事"をしている間、幼少の私は、おじさんとおじさんの友人たちと一緒に遊んでもらっていたのだ。


場面を戻そう。コロニーの入り口、1枚目の自動ドアを抜けスリッパに履き替える。2枚目の自動ドアが開くと消毒の独特な匂いが立ち込める。ああ、懐かしいなと思った。ロビーを中心に右手に女性寮、左手に男性寮がある。ロビーでは入居者の女性が待っていて「こんにちはー!」と挨拶してくれるので、こちらも明るく返す。フレンドリーなこの女性はドアが開くとすぐに出迎えに来てくれて、帰りも毎回見送ってくれるのだ。

担当のヘルパーさんに声をかけ男性寮に向かう。おじさんは1段高くなっている畳敷の共有スペースにいた。「久しぶりだね」と声をかけて座卓に集まり、おじさんのために買ってきた洋服を広げる。おじさんに服を見せつつ、タグを切っていく。

大判のレジ袋をパンパンにする1ヶ月分のおやつたちは、ヘルパーさんに預ける。到着した頃には15時のおやつの時間が終わってすぐだったので、おやつは明日までお預けなのだ。しかし、おじさんは目敏く「おやつ…」と食べたいな〜見たいな〜とでも言うかのように、レジ袋を摘んで中身を見る。「さっきおやつ食べたばっかりだからね〜」「明日、好きなの選んで食べてね」ヘルパーさんと母が少しだけ申し訳なさそうに宥めて、おじさんは「わかった」と頷いた。

「ねえ、ほら見て。靴下私が選んだんだよ。どう?色、綺麗じゃない?」
「きれーい」
パステルカラーの靴下を座卓に並べて見せると、しげしげと見つめてから、文字に起こすなら完全にひらがなな発声で、綺麗だよと伝えてくれるおじさん。褒めてほしい私の心情を汲んでくれたのかもしれない。

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私は詳しい数値を知らないけれど、等級の区分からしておじさんのIQは20程度だ。おじさんは主語述語のある文章は話せない。こちらの問いかけに「うん、わかった」「いやだ」「わからない」「おやつ」など単語で返答する。

運動機能に問題が出ることもある。おじさんの場合、拘縮(関節の組織が縮んで常に曲がっていること)が手首や肘に出ていて、手の甲で頬杖をつくようなポーズをすることが多い。だから、おじさんが私たちを見送る際にしてくれるバイバイは、手のひらでなく手の甲をこちらに向けたバイバイだ。

また、小さな頃に覚えたことはずっと覚えているけれど、新しいことはなかなか覚えられない。だから、私が赤ちゃんの頃から22歳になる今でも変わらず、おじさんは私の名前を呼べない。

「この人だーれ?」「"ち"だよ、"ち"。わかる?」私の名前の一文字目、わかりやすく口をイーっと広げて顔を指差すと、「わかる、ちあきなおみ」と昔の歌姫の名前で私を呼ぶ。おじさんの"さも当然"というような表情がおかしくて、母と私は毎回笑ってしまう。
「この人わかる?」「ちあきなおみ」というやりとり、私はけっこう好きだ。私たちが笑顔になるとおじさんも笑ってくれる。

おじさんはできないことの方が圧倒的に多いけれど、20年かけて母の名前を呼べるようになった。そういう小さな一歩が、家族にはとてもとても嬉しい。母がコツコツと時間をかけておじさんと向き合ったからだと、私は思う。

仕事して子供を育て日々の生活をこなしながら、母はよく頑張っていた。睡眠時間を削って裁判所に提出する資料を作ったり、おじさんが病気で入院したり他の入居者と喧嘩して怪我をしたり(自閉症や知的障がいを持つ人には個人個人の特性があって、多動の人もいれば周りの動きがすごく気になる人もいて、そういう相性の問題で時たまトラブルは起こる)そうしたら、車を飛ばして会いに行った。
おじさんに会いに行く車中、しょっぱい堅〜いおせんべいを食べるのも、私と懐メロを熱唱するのも、眠くならないようにするために編み出した技だった。

おじさんのことを愛おしく守りたい存在だと思っていなければ、きっと母だってこんなに頑張れなかっただろう。おじさんが母の名前を覚えたことを、母はどんなに嬉しく誇らしく思ったか。



物心ついてから、障がい者やその家族にはよくわからないレッテルが勝手に貼り付けられることに気づいた。

小学校に上がってから、おじさんに会いに行ってこんな遊びをしたという話を友達にすると、なぜかみんな「かわいそうだね」「そんなことして偉いね」と私に言った。純粋になんで?と思った。物心つく前からそうして育った私には、何がかわいそうなのかわからなかった。私たちはかわいそうなのか、遊びに付き合ってもらうのが偉いのか、わからなかった。

中学に入ると、クラスで誰かが簡単なことを失敗すると「うわーガイジー!」と揶揄する人がいた。言われた人は「ガイジとか言うなよ!」とその言葉を嫌がる。ガイジは害児=障がい児のことを指すのだと思う。揶揄や嘲笑のために作られた言葉。悪い言葉を使うのがかっこいいみたいなしょうもないムードで、その言葉を使う人は驚くほどに沢山いた。

差別だった。知らないから、知ろうとしないから、そんな酷い言い草ができてしまうのだ。

でも私は、その子たちに言い返すことができなかった。そんなことはないと、正面切って説くことができなかった。

何度か友達に、そんなことはないのだと説明したことがある。その子は興味がないように目線を逸らし「ふーん」とつまらなそうに言った。また別の子は私が話し始めると、聞いてはいけないことを聞いてしまったかのように「まあ、だから偉いよね」と言って茶を濁した。

傷ついた。自分が傷つかないように、私は何も言わなくなった。そのことがまた何より自分を傷つけるのだった。私も差別をしているんじゃないかと思った。おじさんが隔離されているかのような遠い場所にずっと暮らしているのも、好きなときにお菓子を食べたり、ちょっと出かけてイカ焼きを食べたりできないのも、「私たちがそうさせているからおじさんが差別されるのかな?」と何度思っただろうか。時々すごく、胸が苦しくなってしまうのだった。

本当は月に一度よりもっと頻繁に会いに行けるのが理想なのだ。でもそれは私たち家族の時間的にもコロニーの立地的にも難しい。母はずっと以前から、医療スタッフが常駐している他の施設や、うちから近いグループホームを探していた。そうすれば今よりずっと安心だし、頻繁に会いにも行けるのだ。けれどどこも空きは出ず、おじさんとは遠く離れて暮らしている。

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高校の卒業式。最後のHRで、担任は目に涙を浮かべながら、財津和夫の『切手のないおくりもの』の替え歌を歌ってくれた。
「7組のみんなへこの歌を届けよう 広い世界にたった一人の私の好きなあなたへ」
それは、学舎から巣立つ私たち一人一人に向けられた愛だった。

この曲を口ずさむとき、私はいつもおじさんのことを思い浮かべる。おじさんは私にとって、広い世界にたった一人の私の好きなあなただから。
だから私はかわいそうでないし偉くもない。私の愛しているおじさんは、おじさんのような障がい者は、揶揄や嘲笑や差別を向けていい存在ではない。誰だって誰かの大切な人だから、それをどうかわかってほしいのだ。

「私の大切な人だから大事にしてくれ」という理論ではない。例外なしで、この世に生まれた者すべて大切な人なのだ。
おじさんは私たちの大切な人だけれど、もし私たちが死んだりおじさんから遠く離れたりしたとしても、おじさんが1人の大切な人間だという事実は決して揺るがない。人は生まれながらにして健康で文化的な最低限度の生活を保障されているべきだし、嘲笑や差別を向けていい存在もこの世にはいない。
大切に思える人がいないかもしれないし、自分のことを大切に思ってくれている人なんていないと思うかもしれない。別にそれでもいいけれど、だからと言って、あなたが大切にされるべき存在である事実は変わらないし、それはあなた以外のすべての人にも当てはまる。障がい者だって有名人だって、みんなただの人間だ。生まれながらにしてみんな大切にされるべき人間だから、誰の名誉も命も傷つけてはいけない。


単語しか話せなくてもいい。色々なこと、覚えるのが苦手だっていい。色んなことが、上手にできなくたっていい。私の名前を言えなくたっていい。全然似ていない ちあきなおみ と呼ばれてもいい。それも楽しい。

おじさんのことも、おじさんに会いに行くことも、おじさんの家族として生きていくことも、その不便な長い道のりでさえも、私にとって愛おしいものだ。そしておじさんはいつだって、誰に何を言われたって、広い世界にたった一人の私の好きなあなたなのだ。





私のおじさんは、20年経っても私の名前を呼べない。子供の頃に覚えた、昭和の歌姫の名前で私を呼ぶのだ。

「この人だーれ?」「ちあきなおみ」


2021年9月5日未明、おじさんが息を引き取った。
誤嚥性肺炎がきっかけで1ヶ月以上入院転院を繰り返し、生まれた町でもなく慣れ親しんだコロニーでもなく、最期は病院のベッドで亡くなった。

こんなご時世だから、私は一度もお見舞いに行くことなく、遠く離れたコンクリートのワンルームから案ずるばかりで、結局、葬儀にも出られなかった。
甘党のおじさんに、甘くてつるんとしたプリンのひと匙でも食べさせてあげられたら良かったけれど。私がおじさんに何かしてあげられたことなんて今まで何もなく、優しい思い出をもらってばかりだ。

しかし、おじさんが亡くなって数日経ち、「それでも良いのかもしれない」とも思うのだ。だって私にとっておじさんは、ただ「私のおじさん」だったから。
おじさんには確かに重度の障がいがあったけれど、「障がい者と健常者」よりも「おじさんとちあきなおみ」の方が、私の中でずっと真実に近いと思う。私の名前は ちあきなおみ じゃないし顔もちっとも似ていないけれど、確かにそうなのだ。

まだ言葉も話せない頃におじさんと出会って、一緒にたくさん遊んでもらって、おじさんの友人たちとも仲良くなって、音楽番組で『喝采』が紹介される度に ちあきなおみ の名前にピクッとなって。
おじさんがいなかったら、知らなかったことが山ほどある。

おじさんは、コロニーの迷路のようにうねうね続く遊歩道を手を繋いで案内してくれたし、おじさんの友人たちには、精巧なちぎり絵を描く人、電車の車掌さんのモノマネが上手な人、NHKの将棋番組が大好きな人…などなど様々な人がいた。
私は方向音痴で地図も読めないし、真似してひまわり畑のちぎり絵を夏休みの自由研究で提出したときはだいぶ画素数の粗い出来になってしまったし、ある日駅の構内でコロニーで聞いたのと全く同じアナウンスが流れてびっくりした経験もあるし、将棋は難しいし長いしで自分では絶対やらないし見ないだろうなと思っている。みんなすごい。

もしかしたらこれは全部、障がい者という色眼鏡をかけて一括りに見ていたら見えなかったことかもしれない。障がいがあるというだけで、かわいそうだと目を逸らし、関わる人は大変なことをして偉いと勘違いして、知らないまま過ごしてきたかもしれない。

私にはおじさんがいたから、障がい者も健常者も同じ人間だということを肌で感じてわかった。それでも差別があることも、差別される苦しみも、自分も差別している側かもしれないと思い悩む苦しみも味わった。障がい者と向き合うとき、楽しいばかりでいられないこともよく知っている。でもやっぱり嬉しくて楽しくておかしくて笑ってしまうことも知っている。

これもすべて財産だと思う。おじさんからもらった財産。おじさんの生活や障がい者への偏見に対して、心に引っかかったまま抜けない棘になっていることは沢山ある。それが完璧に抜けるかはわからないけれど、ジクジクと膿んでまた自分自身を傷つける前に行動に移したかった。
この文章を書くという小さな一歩だけれど、それでも誰かの目に留まって、おじさんのような障がい者のことを少しでも知ってもらって、心の隅に留めてもらって、そして時には違う誰かに伝えてくれたら、とても嬉しい。

私はもらってばかりだったから、この文章が少しでもおじさんへの恩返しになることを祈る。



私のおじさんは、この世でただ1人、私のことを昔の歌姫の名前で呼んでくれる人だった。

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