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~ある女の子の被爆体験記24/50~ 現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。”水を飲ませちゃダメなのか”
男の人
「みず‥水をください‥」
溝に体をはめ込むように倒れている兵隊さんは、まるで死んでいる人のようにみえた。顔色は青黒く、汗はかいていない。服はひどく破れていて、火傷をしているようには見えなかったが、紫色が広がった腕や足は内出血をしているようだった。近くに寄ると、ヒュッヒュッという音が聞こえ、呼吸をするたびに胸の真ん中がへこみを作った。手足は力なく、しおれた草のようにぐったりとしている。
「兵隊さん、すんません。あたし、水は今持っていないんです」
「はぁ‥はぁ‥」
兵隊さんの指が力なく下に垂れた。
ノブコはとっさに兵隊さんの体の下に手を入れ、兵隊さんの腰の辺りから水筒を取り上げて、自分の首にかけた。
「これ、借りますよ」
ノブコは、さっき、自分が水を飲ませてもらった井戸のある民家の方角へと走り出した。走って、走って、民家の家の敷地に入った。脇目もふらず、井戸のポンプを必死で漕いで水筒に水を汲んだ。そして、元来た道を、急いで電信柱へと戻った。
男の人は、変わらぬ体勢で溝の中にいた。眼を閉じている男の人の肩の辺りの服を掴んで、ノブコはぐっと引き上げた。その人は目を少し開けた。
「水、持ってきました!飲んでください」
兵隊さんから返事は無かった。
ノブコは兵隊さんの体を支えきれず、ゆっくりと手を離した。今度は水筒を開けてから、もう一度兵隊さんの体を起こし、自分の腕で兵隊さんの頭を支えながら、兵隊さんの口元に水筒をあてた。兵隊さんの口角から水がチョロチョロと流れ出たが、兵隊さんの喉仏が上下に動くのを見て、ノブコはホッとした。
そのとき、ノブコは後ろから誰かにポンと肩を叩かれた。
「あんた、そんなことやってっと、その人死んじゃうよ。あの爆弾にやられた人はね、水飲ませたらすぐ死んじまうんだ。やめな。水やっちゃ駄目だ」
「水を飲ませたら、ダメだ!」
その言葉に驚いたノブコは、慌てて水筒を地面に落としてしまった。水筒からチョロチョロこぼれる水は、地面が吸い込んでいった。
ノブコは腕を伸ばして水筒を拾い上げ、声の主のほうを振り返った。
近所の人だろうか、額に深いシワの入った腰の曲がったおばあさんが立っていた。
「新型爆弾にやられた人が水を飲みたいといっても、飲ませちゃいかんよ。飲ませたら、すぐ死んでしまうんよ。川に入って水飲んだ人も、水飲んだらすぐに、みんな死んでったっていうでねぇか」
おばあさんはそう言うと、曲がった腰に手を当て、去っていった。
ノブコが兵隊さんに視線を向けると、兵隊さんもうっすらと瞼を開けてノブコを見ていた。声は出ないようだった。その目は水を欲しがっているかのように、口は開かれ、右手の指先はノブコに向かってかすかに伸ばされていた。
ノブコは水筒を地面に置き、兵隊さんの体をそっと地面に寝かせた。兵隊さんは眼を閉じ、手はしおれた植物のように垂れ下がった。
苦しそうなヒュッヒュッという呼吸の音だけが兵隊さんが生きていることを知らせ、その音がだんだんまばらになっていき、突然、兵隊さんがヒューッ、ヒューッと大きく苦しそうな息を2回した。胸をぐっとあげて苦しそうに息をする兵隊さんの様子に、何かしなくてあげなければはいけないと思ったが、ノブコには何も出来なかった。ただ兵隊さんの様子をじっと見ていることしか出来ることはなかった。
もう何の音も聞こえなくなった。いくら待っても、その胸が息を吸い込むことは無く、静けさはいつまでも静けさのままだった。
それが、その男の人の最期の姿だった。
ノブコはそれを凝視していた。
家族でも、知り合いでも何でも無いが、ノブコはひとりで、目の前で息を引き取る人をじっと見ていた。
兵隊さんの伸びた指は、水をもっとほしがっていたのに、ノブコは水をあげないままで兵隊さんに息を引き取らせた。心の中で後悔があふれた。それと同時に、自分が殺してしまったのではないかと、思った。
ノブコは、自分が水を飲ませたせいで、その人は死んでしまったのかもしれない、と思った。
あのおばあさんの言う通り、最初から水を飲ませていなければ、もう少し生きていたのかもしれない。ノブコは、自分がこの若い兵隊さんを殺してしまったのかもしれないと思った。
「ごめんなさい」
ノブコは、目の前で亡くなった人を置き去りにする自分が、薄情だと思った。ノブコはもう一度兵隊さんのそばに膝をついた。怖かった。けれども、 震える指で生きていた感触の残る兵隊さんの両手を持ち上げ、胸の上で合わせるように置いた。そして兵隊さんの顔に帽子をかけ、服を少し整え、水筒を体の横に添えた。
ノブコは兵隊さんの前に座って目をつぶり、両手を合わせた。
「兵隊さん、ごめんなさい。どうか堪忍してください。あたしは、どうしてもおばあちゃんを見つけにいかなくてはいけないんです。兵隊さんのことを放っていきたいわけではないけれど、ここでおばあちゃんのことをあきらめるわけにも行かないんです。どうか許してください。どうか堪忍してください。どうか天国で、安らかに眠ってください」
ノブコは、自分勝手に許しを請う自分の言い分が、恥ずかしかった。兵隊さんに、自分のずるい感情が見透かされているように感じながら、ノブコは立ち上がり、その場を後にした。
再び歩き出すと、西日の太陽が汗を沸々と額から出させ、そして蒸発していった。眩しくても、暑くても、いつまでも兵隊さんのことがノブコの頭から離れなかった。
「あぁ、私が水を飲ませたから、兵隊さんは死んでしまったのだろう。なんてことをしてしまったんだ」
懺悔の気持ちが湧き上ると、涙が目の前の視界を曇らせた。そして次の問答が頭の中に押し寄せる。
「水を飲まなければ、あの兵隊さんは今も生きていられたのだろうか。もしかしたら、飲もうが飲むまいが、どっちにしても死んでしまう運命だったのかもしれない」
ノブコは自問自答した。
「そうだったのなら、私はもっともっと、水を飲ませてあげるべきだったんじゃないだろうか。そうだ。私がもしあの兵隊さんだったなら、もし自分が死んでしまうのだと思ったなら、私は水を飲みたいだけ飲んで死にたい。たとえそれですぐ死んだとしたって。
あぁそれなら、どうしてあのとき私は、最期のお水を飲ませてあげなかったんだろう。気が済むまで、満足できるまで、たっぷり水を飲ませてあげれば良かったのに。私はきっと、自分のせいで兵隊さんが死んでしまうことだけが怖かったんだ。兵隊さんの気持ちよりも、ただ、自分が嫌な気持ちになるのが怖くって、あのとき水をあげられなかったんだ。兵隊さんはあんなに飲みたがっていたのに。あぁ、もっともっと、兵隊さんが好きなだけ飲ませてあげれば良かったのに」
悔しさが目元まで込み上がり、悲しみとともにこぼれ落ちた。
「決めた。あたしが、あの兵隊さんのような人にまた会ったら‥、水をほしがっている人にまた出会ったら、今度は飲みたいだけ飲ませてあげるんだ」
ノブコは立ち止まり、ぎゅっとつむった目を腕で拭った。
ノブコおばさんは90歳になった今でも、この男の人に水を飲ませてあげられなかったことを、鮮明に記憶しています。
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