見出し画像

~ある女の子の被爆体験記29/50~現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。”原爆を作った科学者と使った政治家の話“

マンハッタン計画 

核兵器が地球上に最初に落とされたのは、日本の広島、1945年8月6日のことだった。3日後の8月9日には、長崎に落とされた。広島では、爆心地から500メートル以内にいた96.5%は死亡、0.5-1km以内にいた人は83%死亡、1-1.5kmにいたものは51%死亡した。生き残った人間も、その後も放射線障害に長年苦しんだ。この統計は1956年にマンハッタン計画の結果として出版された“日本における、原子爆弾の医学的効果(Medical Effects of the Atomic Bomb in Japan) ”に、アメリカの科学者・医師によって発表されたものだ。

マンハッタン計画というアメリカの核兵器開発プロジェクトであり、1942年に始まり、当初の本部がマンハッタンにあったことからそう名づけられた。

アメリカにおける原子爆弾開発のきっかけになったものは、第2次世界大戦を機に亡命したユダヤ人科学者が1939年に送った1通の手紙である。受取人は当時のアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルト大統領である。

手紙には、ウランをつかった強力な新型爆弾開発の可能性がドイツで行われることの懸念と、アメリカでの早急な新型爆弾の開発を促すものだった。この手紙は、アインシュタイン=シラードの手紙と呼ばれ、シラードに依頼されたアインシュタインが手紙を書いて送った。

この手紙から8ヶ月後にはシラードはアメリカから資金援助を得て、原子爆弾開発に携わる。

開発を途中でやめたくなった科学者

極秘の原爆開発はこうして始まったが、1945年3月にドイツでは核兵器の開発がされていないことが判明したことで、開発を始めた科学者たちの手は一時的に止まった。この時、開発してきた原子爆弾は、当初科学者たちが想定してきたドイツに対して使われるのではなく、この時、まだ降伏を表明していない日本へ投下される可能性が出始めていた。さらに、開発している爆弾の威力は、おそらく、科学者たちが開発し始めた当初の想定よりも、はるかに甚大で無情なものになることが、1945年の時点で科学者たちには想像できるようになっていた。原子爆弾の使用を見直させたいと考えた科学者達は、どんな行動を起こし、その結果はいかなるものとなったか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?