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隠し子の叫びー半世紀後の父との再会物語#6 新たな苦しみ

   父の消息が分かった日、私は大変嬉しく高級デパートでシャンパンとケーキとご馳走を買ってきて夫と共に祝った。夫は若い時父親と死別したので自分にも父ができたようで嬉しいと自分のことのように喜んでくれた。翌日父からの文書が届き、私は一層嬉しくなり、急遽休暇を取り夫に置き手紙をおいて飛行機で1人父の住む遠い他県へ飛んで行った。しかし父は会ったら多分三日くらい泣き続けてしまうし、あまりにも突然過ぎてどうしても心がついていかないと折角会いに行ったのに会ってくれなかった。しかし私がそばまで行ったことでもっと繋がりが濃くなり、そこから私たちは一週間に1ー2回程度のメッセージのやり取りを行ない始めた。
  父と50年後に繋がった最初の2−3週間くらいはまるで天にも昇るような気持ちでふわふわ浮く心をどう制御して良いのかわからないような状態だった。しかし、それも束の間、私の気持ちは、こんな素晴らしい父のことを50年間も隠していた母への憎しみと父の再婚家族への嫉妬心に変わっていった。素晴らしい父だったからこそ、父親について行かれては困ると思い、親権が取られないよう、母は隠し切ったのだろう。再婚をせず愛人として生きる道を選んだ彼女は父の再婚を受け入れず娘を父なき子とし、それを隠し通す罪悪感に苛まれ、シングルマザーという重荷に加え、二重の苦しみを味わうことになってしまったのは大悲劇であったと言える。
  母があの時父との復縁を受け入れていてくれたなら、私は母を置いてわざわざ海外へ心の中の父性を探す旅には出なかっただろうにと思うと、母の決断が愚かに思えて仕方がない。母自身も華やかな水商売の世界から老後の一人の生活に変化し寂しさを味わう中、もしかしたら、あの時父と復縁をしていればよかったと後悔しているかもしれない。当時は母も極限の中でベストの決断をするしかなかったのであろうし、父なき子にされた私のために精一杯、お金や物を与えようと尽くしてくれたことには感謝しなければならないと思っている。しかし、ブランドのバッグも衣類も美味しい食べ物も、父親の代わりにはならなかった。私の心を満たしてはくれなかったのだ。この気持ちは、まるで誤診によって間違った処方箋を受け取り、効かない薬をずっと飲み続け、副作用に悩んできたような感触なのである。
  私としてはあの時戸籍上父の娘になれなかったとしても、一目でもいいから会わせて欲しかったのだ。「あなたのお父さんはこんなに頑張ったよ。あなたのことを一度も忘れていなかったよ。こんなに立派になって帰ってきてくれたよ」と言って紹介して欲しかった。そうすれば私は家を遠く離れることはなく、母は私を失わずに済んだ。一年に一度でいいから父に会えていたら、どんなに良かったかと思う。喫茶店で2時間一緒にコーヒーを飲みながら過ごすだけでもいい。政治、経済、社会問題について語り合い、生きる哲学を教えて欲しかった。そんな風な関係があれば、私の鬱病は酷くはならなかったであろうし、精神的にバランスの取れた人間となり、母も呆れるぐらい新宗教に没頭しすぎることもなかったはずだ。
  今頃どこかで路上生活でもしている不成者と常に聞かされてきた父が、15年後、ある日、高級車に乗り立派な姿で高校生の私を迎えに来てくれたのかもしれないのだ。そう考えただけでワクワクする。しかし、それは母一人の決断によって叶わぬこととなり、私に代わって私が得るべき幸せは私の妹にあたる父の新しいお嬢さんの元へ全て渡ってしまったと思うと羨ましくて悔しくて仕方がなかった。二年前まだ日本にいた頃、女子高校生にすれ違う度そんな苦しい感情がトラウマのごとく蘇ってきて大変辛い思いをした。女子高生達がグループで楽しそうに笑いながら歩いているのを見るだけで、槍で胸が突き刺されそうな気持ちになり、胸を手で押さえながら歩いていた。まるで戦争である。戦国時代にお家騒動で親子断絶となった武士の娘のような気持ちにさせられるのである。私はそんな時考えた。なぜ実子の私が実父と実母の復縁の可能性についてはっきり聞かされなかったのか。これは明らかに私の子供としての人権が侵害されたことを意味する。あの時、大人達は誰も私の人権を守ってくれなかった。私たちの日本という国は民主主義国家ではなかったのか。民主主義では人権が守られるべきではないのか。「単独親権・単独監護社会が続く限り、日本を民主主義国家と私たちは呼ぶべきではない」と私は隠し子のプライドを持ってこの文面上で大きく叫びたい!
  母が父の送金のことなどを隠し切っていたのは、私にだけでなく祖父母や親戚に対しても同様だった。なので、父はいまだに皆にとって「悪い人」のままになっている。今までずっと私を愛し私のために懸命に生きて存在していた人が悪い人、「いない人」とされてきたのである。これはまるで人殺しだ。これほどの人権侵害はない。そして母や祖母は知らないのだ。「悪い人、いない人」という父へ向けられた矛先は私の胸にもしっかりと突き刺さっていたことを。私は父の子として出自について真実を知る権利がある。父が批判され否定され、真実があやふやにされたことによって私のアイデンティティの半分が崩されてしまったのだ。
  どうせなら、祖母が私に言い続けたように、悪いのはただ一人父であれば、皆どれだけ気が楽だったろうにと思う。しかし、我が家の家族物語がそんな単純な「勧善懲悪」のストーリーで終わっていないところに人間の深みと単独親権イデオロギーの恐ろしさを感じる。先進国で唯一単独親権国家である日本社会において、離婚後、一方の親が子供たちを連れ去り、連れ去った方が親権を取りやすく、子供たちは同居親に洗脳されたり、同居親に遠慮し別居親に会いたいともいえなくなってしまう状況に置かれている。人間や家族とはとても複雑で目に見えないところでどんな罪が隠され、何が操作されているかわからないのに、誰かが善人で誰かが悪人と単純視されてしまうのが、単独親権イデオロギーだ。そしてそんな環境の中で育った子供は自分の半分が善人で半分が悪人というマインドセットをされてしまい、健全な人格形成の歩みからは逸脱する傾向にある。
  私はこれまで心理士として多くの片親疎外症候群の症状を持った子供達に接してきた。親の離婚後傷ついた子供たちの心理アセスメント行なうと別居親の存在を否定された子供たちが絵画で自身を表現する時、半分を真っ黒に描いたりする事例をいくつか見てきた。暴力団員の父であっても子供は父が恋しく面会交流を楽しみにし、父との交流が子供の心の支えになっているというケースもあった。殺人犯の親についても、あからさまに「悪い人」として面会交流を遮断するのではなく、子供に分かる言葉で適切に説明し徹底した配慮の下、面会交流をするという事例なども欧米の同業者の友人から聞いて学んだこともある。
  しかし自分自身のバックグラウンドについては疑う余地もなく、育ての親である祖母の言葉を鵜呑みにし50年も生きてしまったのだ。祖母が父について語る時しきりに使っていたこの「悪い人」という言葉は、単純なだけに恐ろしい。私が信じていた宗教の布教師である祖母が使った言葉であったからこそ、50代になるまで信じて疑うことがなかったのだと思う。しかし祖母も父のその後については母が隠し通していたために知る余地もなかった。母自身も、単独親権社会の中で自分の幸せを取るか娘の幸せを取るかという苦しい二者択一の境地に立たされた一人の犠牲者であり大変苦しんだと思うと気の毒になる。我が家の家族問題の全ての発端に単独親権イデオロギーが潜んでいたことにやっと最近気付かされた。
  父と繋がった頃の最初の数ヶ月は非常に辛かった。父と折角知り合えたのに会って抱きしめてももらえない。贈り物が届く訳でもない。時々SNSのメッセージのやり取りをするが、私から送る方が頻度も多く一度に送る文書も長い。メッセージを送っても返事が来ない時もある。丸一日既読にならない時など死んでしまっていたらどうしようと泣いたこともあった。朝から晩まで父のことを考えて仕事も手につかなかった。夫がそばにいてくれなかったら自死を考えたかもしれないと思うほどの喪失感でいっぱいの日々だった。30代で前夫を癌で失った時の喪失体験と変わらないほどの苦しみだったのだ。
  行き場がなくて、どうして良いかわからず、自分の気が少しでも晴れるかもしれないと思うことは何でもした。毎週のように地元の贈り物を宅急便で送った。その宅急便の発送状況のメールの知らせを見ながら、ハラハラドキドキしていた。「あ、もうお父さんのいる地域まで届いている!」、「まだ受け取ってないなあ・・・。不在だったのかなあ・・・。」、「あ、受け取った!」等々、細かく確認しながら一喜一憂していた。贈り物が届けば、贈り物の内容について「美味しかった」等々感想と共に感謝の言葉のメッセージが来るのでそれが嬉しくて毎月のように贈り物をした。父の日、お中元、敬老の日、誕生日、お歳暮、クリスマス等々あらゆる機会を見つけて贈り物をした。しかし、父からは誕生日にもクリスマスにもプレゼントは届かず、お中元やお歳暮のお返しも全くなく、とても寂しかった。所詮、今のご家族が一番の家族だから、私は捨て子や隠し子同然なために放って置かれるのも当然なのだなあと思うと一層悲しくなり、母への憎悪が増していくばかりだった。父は私と姉はいつも父の心の中で生きていたと言ってくれたがそれは本当だと思う。私の名前の一字を父のお嬢さんにつけ、私たちを忘れないようにしたということは、新しいお嬢さんを育てることを通して、私たちを育てたいという気持ちを昇華したわけである。又、80代のおじいさんになってしまった父が、娘が50歳を過ぎて急に現れ、大変嬉しくもどう対応して良いかわからなかったというところもあり贈り物さえできなかったのではと思っている。
  父から贈り物が来ないことが悲しく、仕方がないので自分で自分に贈り物をした。父の苗字に関連する動物の絵柄やデザインの物は何でも買いあさった。ぬいぐるみ、置物、お菓子、マグカップ、ネックレス、洋服、バッグ等々。この動物の絵柄は日本ではなかなか見つからないが、私が今住んでいる国では見つけやすく、こちらに移ってからも買い続け、家の中はこの動物グッズでいっぱいになっている。日本にいた時、父からの返事が遅れて非常に悲しい時など、この動物の絵柄の物を見つけに街中を歩き回り、見つからない時は一層悲しくなった。そんな時は、もし高校生の頃母が復縁を受け入れ、父が戻ってきてくれたなら、きっとこんなお土産を私に買ってきてくれたのではないだろうかと想像する物を購入し、「お父さん、プレゼントありがとう」と言いながら、自分にプレゼントをした。
  父の故郷も訪ねた。父方の親戚とはその時はまだ父の失踪以来疎遠な状態だったので、父の実家がどこにあるかはわからなかったけれど、父の出身地と聞いていた田舎町を梅雨のある日の午後小雨に打たれ涙しながら一人歩いた。そして、こんな下手な詩を書いた。

         一本の松の木

  お父さん、私は今、貴方の故郷を訪ねています。ここに来ても貴方はいない。ただ貴方の面影頼り、初夏の雨の日の午後を川辺に沿って歩いています。それでもいい、それでもいい・・・。ただここにいるだけで 、なぜか心が温まります。貴方が少年だった頃、この優しい風を貴方も浴びていたのかな。この川の雄々しいせせらぎを貴方も聴いていたのかな。この淡い緑の匂いを貴方も嗅いでいたのかな。そんなこと思いながら、歩けるだけで、幸せです。
  一枚の手紙が見つかり、真実が明らかになりました。一夜にして「悪い父」が「聖者」になりました。
  お父さん、私を棄てていなかった。こんなに素敵な人だった。驚き、満たされ、癒されて、2歳の私が泣きました。貴方を探し、貴方と繋がり、奇跡の対話が始まりました。けれど、五十年の月日は長く、それぞれに生きる場があり、貴方の胸にすぐ飛び込んでいくことはできません。
  それでもいい、それでもいい・・・。あなたに早く会っていたら私はもっと甘えていて、今の自分より小さかった。それでもいい、それでもいい・・・。再会する日を楽しみに、毎日生きていけるから。それでもいい、それでもいい・・・。いつか天国に行くときは好きなくらいずっと一緒にいられるから。
  そんなこと思いながら、歩き続け行き着いた庭園。緑の小高い丘の上の一本の松の木が私を見つめました。他に交わるものがなく、寂しげにも雄大に、優しく、じっと一人立ち、私が来るのを待っていました。
「おかえり。父はずっとここにいたよ 。これからもずっと見守っているよ。」
  懐かしさと切なさと父の愛が胸いっぱい 。涙がポロポロ止まりません。子供のように泣きじゃくり、そうっと目を開けました。二羽の夏鳥の親子たち、どこからともなく飛んできて、松の木の枝に止まりました。涙がスーッと引いて、希望と勇気が一気に湧いたの初夏の雨の午後でした。

  父の故郷の町を歩いている時、白い蝶々がどこからともなく舞ってきて私を離れなかったことも印象的だった。父にお土産を買い、それをその町から父の元へ郵送した。3日後に、学校で授業をしている時、どこからともなく、あの時見た同じような白い蝶々が突然現れ教室の中を舞った。それを見て学生たちがとても不思議そうな顔をしながら私を見た。私は心の中で察していた。これは父が父の故郷のお土産を受け取ったという徴だと。案の定、携帯電話を授業後確認したら、父から「今小包が届いて懐かしい故郷の物を見せてもらったところだった、ありがとう」というメッセージがちょうど白い蝶々が現れた時に送信されていたのを見つけた。こんふうな不思議なソウルメイトのような私と父とのやり取りが今でも続いている。
  ある日は地方裁判所まで足を運び、門の前で目を閉じて神に祈ったこともあった。「神様、どうして私の母はこの日本という国で裁かれなかったのですか。私と父が再会できるチャンスが母一人のの意志選択のために叶えられませんでした。私の教育費を父は送金してくれていたのに、母がシングルマザーとして一人で私を育てたこととなっており、父の存在は無とされ、周囲は母を褒めたたえ、私が彼女から受けた心理的虐待も周囲からは虐待と認められませんでした。神様、裁判官さん、なぜこんなことが日本で起こっているのですか。なぜ先進国日本は単独親権社会なのですか」
  クリスチャンの私が神様に祈る時は教会に行くのが常だが、私はその頃、教会から足を遠のいていた。キリスト教の人たちに相談すると母を赦しなさいという人が多く、恐ろしてく相談もできなかった。大体一般人には私のこの体験の苦しみは、相当長く噛み砕いで説明しないと伝わらなかった。皆、口を揃えて「よかったね。お父さんと50年後に繋がって。稀にない感動的な話だね」と言うのである。私の喪失感や怒りや悔しさや行き場の無さは、単独親権社会の犠牲者にしか伝わらない。実子を片方の親に奪われたという親たち、離婚後、同居親から別居親に会わせてもらえず辛い思いをした子供たち、そういった実体験をした人々にしかわかってもらえない苦しみなのである。自分の体験を通し、単独親権の恐ろしさを知り、共同親権社会実現を目指し社会活動を行なう人々との出会いが私を癒し、もう一度前進する力を与えてくれた。母も単独親権社会の中の一人の犠牲者であったことに気づかされ、憎悪の気持ちも少しだけ軽くなった。一人の宗教者として、癒しを大切にする宗教に本当に癒されたい時に癒してもらえないということを改めて確信できたことは私にとって今後の人生を歩む上での大きな気づきと強みとなった。宗教とは何か。信仰とは何か。祈りとは何か。癒しとは何か。宗教に関しどんなにたくさんの問いが生まれても究極の中で私は神を信じる、信じる勇気を持ち続けたい。あの時、母への神の裁きを請うために教会ではなく裁判所へ足を運んだ自分の心の動きと行動を大切にしたいと思う。そして、あの時の自分の心境を分析し続ける視点を一人の心理士として忘れたくないと思っている。
   お盆の頃になると、白いお花を買って、母方の先祖のお墓参りへ行った。そして、ご先祖の皆様にお伝えした。「おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、聞いてください。私の父が皆様に一時期多大なるご迷惑をおかけしました。その子供である私を大切に育てて下さったことに感謝致します。母がずっと皆さんに隠しておりましたが、父はあれから大物、富豪になったのです。でも母が父の復縁を受け入れなかったのです。私の父は立派な人だったのです。それがとても嬉しく、みなさんもきっと喜んでくださると思い、今日ご報告に来ました。この白いお花は、彼の罪の償いの心は潔白であり雪よりも白いということを証明する物です。これをお伝えするため、今日私はここに参りました」そう心の中で祈りお花を花立に刺した瞬間、「よかったね」とご先祖様たちの声が聞こえて来たような気がした。その夜夢を見て、親戚のおばさんたちが出てきて、実は昔あなたのお父さんに随分助けられたというようなことを言われた。
  当時、たくさん不思議な夢を見て、ユング派のセラピストよりドリームワークの心理療法を受けたり、箱庭療法の先生から教育分析も引き続き受けて、私の心は少しずつ癒され、整理されていった。しかし、どうしても母に対する怒りの感情を制御できず、私は一つの儀式を行なうことにした。それは、母からもらったものをほぼ全て視界から消すということだった。母が買ってくれた洋服やアクセサリーを身につけているだけで窒息死しそうな気持ちになり前へ一歩も進めないと思っため、スーツケースや箱に入れ押入れの奥に仕舞った。父が家を出て行った時、父の所有物を全て燃やし死んだ人としたと聞いたことがあったので、これは私の中での小さな仕返しだった。(続く)

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