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#11【実】実存主義から学ぶ、「意志」を持つ人の考え

冒頭の写真は、先日訪れたバンコクのインターナショナルスクールにあった格言?です。
今日は、この中の
「Be the best version of yourself」
にかかわるお話を。

サワディーカップ。
最近、とある事情で理論武装したくなることがあり、
Kindleで哲学書を読み漁っています。
ちょっとだけ教育や人の行動にリンクさせながらアウトプットしてみたいと思います。

哲学との出会い

「哲学」と聞くと、
「難しそう」
「堅~いお話」
「え、宗教!?」
「真面目か!」

みたいな印象を持つ中高生も多いと思います。
僕も大学生になるまで同じ感覚を抱いていました。

学校教育でも高校の「倫理」でさらっと触れる程度で、「哲学」に特化した科目はありませんし、その「倫理」も、新カリでやや縮小ムード。
そりゃ「食わず嫌い」になるのも仕方ないです。

僕自身、「哲学」に出会って感動したのは、
「自分がなんとなく感じていた社会のモヤモヤ」をすでに言語化して論理的に整理している先駆者がいたこと!
自分の感覚って間違ってないんだと思えたことです。

具体的には、「言葉ってなんでこんなに人を動かすんだろうか、所詮言葉でしょ」と思っていたことが、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という理論で体系立てられていたこと。

衝撃でした。

なおかつ、この哲学者たちは、
僕みたいにふと思ったことをひたすら掘り下げる作業をしていただけにすぎないということに気づきました。
すると急に哲学というものに親近感がわき、こうして哲学書を読み直すときにも抵抗なく入り込めるようになりました。

こんな入門書も売っています。子どもも大人もむちゃくちゃ読みやすいです。

教育の目的

「哲学」の話はもしかしたら「ニーチェ」からスタートしなければならないかもしれませんが、
ここでは僕の知りたかったことに直接リンクする実存主義からいきます。

しかも、実存主義と言ったらキルケゴールの人生のほうが話していておもろいに決まっているのですが、これも飛ばします^^


学校教育で刷り込まれるヒドゥン・カリキュラムの一つに、
「人は大人になったら好きな人と結婚して子供を作り、家庭を築くものだ」という観念があります。
国力をあげることを目的の一つとする教育において、この観念は至極まっとうだと思っています。

ちなみに教育の目的は「教育基本法」の最初に書いてあります。
教育関係者なら、そらで唱えられますよね?

教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法第一条「教育の目的」


僕もこのレールを想像しているし、願ってもいます。

でも、このようなレールに疑問を呈する人もいます。
このレールに疑問を呈する人はいくつかのパターンがあると思いますが、その中の一つに「国家及び社会の形成者」であることへの意識のなさというか、そこへのダウトをかけているというタイプがあります。

無理やり前述の教基法にこじつけるとするなら、「個人の価値をたっと」ぶことにかなりの比重が置かれているのではないかと思います。

このような考え方の根底にはどんな論理があるのでしょうか?


実存主義の主張

国家・社会の形成者であるということを置き去りにして個人の意志を信条とした哲学者の代表がサルトルです。

人間とは、合理的な思索によって、「こういうものだ」と本質を言い当てることのできない不可思議な存在である。なぜなら、人間は、自分で自分の生き方を決めることができる「主体的意志」を持っているからだ。

こういう人間存在を
「現実存在」=「実存」
と呼んだわけです。

たしかに、現代に生きる僕らは主体的に意志をもって自由に行動することができると考えています。
ゲームをしたい、金を稼ぎたい、こんな仕事に就きたい・・・
究極は、「死にたい」と思えば死ねます。

つまり、「人間はこういうものだ」という本質より前に、「現実に存在」する人間としての僕らがいるというのが、実存主義の考え方です。


現代の教育とのリンクと弊害

現代の教育的にもこの主張はまっとうのように見えます。

僕を含めた教員は子どもたちに
「君たちはそれぞれ「個性」があるのだから、その「多様性」を生かしてそれぞれ描いた未来を自由に進めばいいよ!」
「さて、なにする?なんでもいいよ!」

と投げかけています。
授業でも探究でも進路指導でも。

しかし、自分の個性や社会の多様に対する寛容性に苦しむ子どもは、実は少なくないのではないかと思っています。
自分の個性って何?
社会がなんでもいいって言っているけど逆に困るよ!
みたいな。

親「今日の夜ご飯何がいい?」
子「何でもいい~」
親「何でもいいが一番困るの!」
みたいな。

この「個性」とか「多様性」という言葉を、僕は違和感をもって受け止めているのですが、
なぜ違和感があるのかその正体が、哲学を見直すことで分かってきたのです。
(この話は次回以降に続きます)


簡単に言うと、
上述の実存主義の考え方に対しての、
人それぞれ自由に生きていたら社会って回らないでしょ?」
「自由っていうけど所詮僕らは社会の一員なんだよ?」

という僕のモヤモヤが、
次回以降の話で晴れていきます。

次回、僕の大好きな「構造主義」。
お楽しみに!


追伸
最近ワンピースを見直しています。
なんとシーズン1からです。
1年くらいかかるかなあ~~

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