マディソン

大阪で身体を勉強しています。

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最近の記事

目線の話3

どこまでも視覚に頼っているんじゃないかって思ってしまうのでまたこんなことを描き認めめます。僕は刺青とかピアスとかにどこまでも惚れ込んでいるのですが自分が刺青を入れるなら首元から肩にかけて連続したモチーフを彫りたいと思っています。刺青はある意味で美的な「作品」として考えています。それはあくまで見られるものであり何らかのモチーフやそれに込められた意味を発するものであると同時に誰かから見られるものという受け身の存在であるのです。バウムガルテンの美学観を現代風に読み替えたところの感性

    • リアリティーとオーセンティティー

      「〜らしい」という表現はいたるところで目にしたり耳にしたりすると思います。一般的な言い方であって誰しも親しみがあるはずです。誰かのモノマネをするときに本物よりも本物らしいなんて言い方もしたりします。このような場合は大抵本人の特徴を著しく誇張してみせることで我々はそう認識しています。ではドラァグの世界ではどうなのでしょうか。いわゆる「オカマ」と言われる人たち(かなり語弊を伴う表現になっていることはわかりますが便宜上こう言わせて下さい)が「女らしい」格好や立ち居振る舞いをするとき

      • 目線の話2

        お恥ずかしながら前回投稿から数ヶ月も時間が空いてしまいました。学年末だったりコロナだったりでバタバタしてたことを言い訳にするのはあまり褒められたことではないので反省します。今期は試験前までは書き残せるかなと思います。 さてフランス小説家Gideの"LA SYMPHONIE PASTORALE"という小説がありその一節の表現が気になったので文章にしようと思います。この小説のあらすじはネグレクトに近い状態にあった盲目の少女ジェルトリュードが牧師に引き取られ成長していくというもの

        • 目線の話

          先日提出した講義の期末レポートがそこそこ気に入っているので成仏させようかなと思います。バルトとサルトルといった同時代の文筆家の考えの本の一部を比較してみました。以下転載です。 とりわけその「視線」に着目して考える。まず講義で扱ったように、バルトにとって恋愛主体とその対象は性別を限定されておらず、『ミシュレ』にあるように両性具有的だ。「ロラン・バルトの作品と生をとりまく女性的な環境-彼はこの環境の人であり、その女性的なるものの手で薫陶を受け、女性的なるものの世界へと導かれてい

        目線の話3

          娯楽と情報

          本当は去年のうちに上げときたかった文章を書こうかなと思います。昨年の12月に国立民族学博物館で伊勢大神楽を行うというイベントがありました。僕が前期でとていた授業を担当された先生が企画されており、山本勘太夫社中の方々たちをお呼びして「みんぱく村」にて舞や歌を見させていただきました。月並みですが映像で見るとは比べ物にならない迫力に只管圧倒されました。 もちろんその内容は素晴らしかったのですがその後の懇親会でのお話しが印象に残りました。本来なら全くの部外者の僕ですが先述の先生がお

          娯楽と情報

          言葉に関して

          言葉というのはひどく流動的で、毎年新語が生まれては無くなっていきます。特に何かと言及しなくともその例は思いつくはずです。その中でもエモいという形容詞は僕にはとても印象的です。古典の中の「おかし」「あはれ」「わびさび」などの意味が現代で「エモい」と表現されていると感じます。風景、事象、人物と対象こそ多様ですが、心が動かされるかつその感動がしっとりとしたものであると僕は解釈しています。現代語として上記の古語が各々の訳がはっきり決まっている今日に「エモい」という一言で表現し得るのは

          言葉に関して

          年の瀬なので

           あんまり〇〇年が終わるので一言みたいなのは得意ではないですが、せっかくnoteを始めたので年末に学生らしい面の一年のふんわりとしたまとめをしてみます。少し長くなるかもしれませんがせっかくなので思ったことを適当に書いてみます。  一番大きかったのは研究室配属だと思います。高2の時に何となく倫理の授業が面白くてその年のパピエでレッドパージの参考になったとして紹介された『我が解体』を読んでそこから哲学方面を意識してから2年以上もかかってこんなとこにいるのかと。確か最初はハイデガ

          年の瀬なので

          スティグマ

          前回の投稿から少し時間が空いてしまい徒然なる物書きという慣れないことをしているなぁと思ってしまいます。さて、先日の講義であった内容にそいつつ述べてみるかと思い書き出しとします。 精神病へのスティグマはかつてフーコーが言及した通りであって「病気」であると診断されることによって当人の人格云々でなく精神障害者として認識されるのはいくら(医学的・社会的問わず)理解が進んだ昨今でさえ理解され得ると思います。よく分からない異質なものとしての障害に対する忌避意識は当然だろうしそれの賛否に

          スティグマ

          詰め込みの否定の否定

          専門の講義で哲学史講義を取っています。前半の授業ではギリシア以来の西洋哲学の大きな流れが説明されていて、タレス以降のソクラテス以前の哲人も取り上げられてました。その中のアナクシマンドロスの「アルケーはト・アペイロンである」という主張に対して弟分のアナクサゴラスが「目に見えないものが根源であるなんてナンセンスだ!」批判するのです。確かに万物の根源が「目に見えない」というのはおかしな感じもしますし自然哲学と呼ばれた時代を鑑みればアナクサゴラスの論駁に首肯するのも妥当でしょう。とこ

          詰め込みの否定の否定

          子供意思表明について

           先日の気候変動サミットで一躍有名になったトゥンベリさんの演説。その賛否はともかく彼女の行為が礼賛されるのを少しだけ考察しようかと思います。  先づ発言者が「子供」であるがゆえに「大人」の前でそして「世界」の前で発言出来ることを称えているという一面があるでしょう。我々には、子供という弱い存在が大人や世界という強く大きな存在を前にして堂々と発言出来ること自体を立派だと考えるの構造的な意識があります。これは一般なことです。さらに飛躍すれば本来強いはずの大人である自分にはできない

          子供意思表明について

          初日

          なんとなく文章を残してみたくて初めてみました。何を書くか、どれ程続くかまだ分かりませんが読者たる自分一人のために出来るだけ筆(スマホ?)マメでいようと思います。