詰め込みの否定の否定

専門の講義で哲学史講義を取っています。前半の授業ではギリシア以来の西洋哲学の大きな流れが説明されていて、タレス以降のソクラテス以前の哲人も取り上げられてました。その中のアナクシマンドロスの「アルケーはト・アペイロンである」という主張に対して弟分のアナクサゴラスが「目に見えないものが根源であるなんてナンセンスだ!」批判するのです。確かに万物の根源が「目に見えない」というのはおかしな感じもしますし自然哲学と呼ばれた時代を鑑みればアナクサゴラスの論駁に首肯するのも妥当でしょう。ところが時代が下るとプラトンの「イデア」や(アリストテレスが反論しますが)さらに近世のドイツを見てみるとカントの「物自体」なんて考えも出てきます。視覚的に知覚できないこんな概念が後世に出てきて、かつそれが確かに相似な関係にあるのは面白いと思えます。

ただもし僕が高校での知識を忘却していたらこんな「繋がり」はおそらく脳裏を過ぎることはなかったでしょう。もっと言えば受験勉強用の暗記をがっつりしていたからこそ今でもなんとかして引っ張り出して来れます。高校の時は点でしかなった、乃至は近くの事柄としか聯関を持たなかった知識が時にアクロバティックに時に有機的に繋がってゆくのは恐らく経験した人しかわからないと思います。だからこそこんな楽しさを知ってもらうために、そして人文学の未来のために過剰な学校改革を省みるというのもありかなと思うのです。(モンテーニュ の『エセー』の一部分を過剰に意識して書いてみました。)

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