娯楽と情報

本当は去年のうちに上げときたかった文章を書こうかなと思います。昨年の12月に国立民族学博物館で伊勢大神楽を行うというイベントがありました。僕が前期でとていた授業を担当された先生が企画されており、山本勘太夫社中の方々たちをお呼びして「みんぱく村」にて舞や歌を見させていただきました。月並みですが映像で見るとは比べ物にならない迫力に只管圧倒されました。

もちろんその内容は素晴らしかったのですがその後の懇親会でのお話しが印象に残りました。本来なら全くの部外者の僕ですが先述の先生がお誘いくださり、神楽師の方や国立民族学博物館の研究員の人たちとお話しする機会をいただけました。そこである神楽師の方から伺ったことなのですが、伊勢大神楽が多様な次元の意義を孕んだ存在であったというのです。そもそも大神楽のルーツは代神楽と表記されてことにある様です。その昔現地に行くことができない人々にお伊勢さんに代わって一年に一度、村々で神楽を行うことが原義でした。実際現代でも各社中が近畿を中心とし中国や瀬戸内、南北陸の諸地域を回られています。当然村人からは神性を持つ対象として捉えられていました。それだけでなく曲芸的な派手な演技に漫談といったエンターテイメントの側面もあります。現代の様に遊び・気晴らしが数少ない中近世の日本においては一年に一度のパーティーとして村一丸で盛り上がったのです。賓を大量のお酒でもてなし自らもまた楽しむことで日頃の鬱憤やストレスのガス抜きになります。また村の全員で大神楽を歓待する故に若い男女の出会いの場としての側面も持っておりさながら婚活パーティーのようでもあったのです。ですから漫談の中にも下ネタを含有させるのは一般的であり、現代的な性教育の意味もあったと言われます。つまり村の繁栄という一本の価値的な情報軸をベースに様々な現象を露発させる空間の提供者として伊勢大神楽は在ったのです。

さて、視点の時間を進めます。近代以降様々娯楽が普及し特に戦後はテレビやラジオが家庭に、サブカルチャーも一般化し、競馬やパチンコもある程度は地域問わず当たり前な存在へとなって行きました。これは経済発展に伴い人々の生活が安定していくことと相互補完的に多様化します。人々の中でその情報源や娯楽の対象として選ぶことができる選択肢が実体として大幅に増えたのです。ところが今日ではパソコンやスマホがその役割を統合しています。一つのデバイスで様々な情報に触れたり娯楽に興じることができるのは広く認められるはずです。エンターテイメントは勿論、食事の注文や生活リズム管理、教育や出会い系といった様々なレベルのファンクションを一つのものが担うのです。それは単なる機械ではなくさながら色々な空間へ接続させる物(「空間的物」とでも呼びましょうか)として考えてよいでしょう。ここに見られる集約的機能を伴う空間性は大神楽のそれを重なって見えます。一つの空間が様々な価値を持つかつての芸能は時代が進むにつれ価値の次元で実体的に多様化し、しかし現代ではそれが一つの「空間的物」に凝縮するしています。そしてその凝縮化されたデバイスには利便性という一本の通底する価値があります。ある意味では奇妙とも捉えられる変化が情報・娯楽レベルで生じているのではないでしょうか。

当然色々な例外はあるでしょうし参考文献も何もないまま言葉を連ねただけなので論考としては甘いと思いますが僕には面白く見えたので残しておこうと思います。余裕があればその他の芸能に関しても考えたいとは思いますが、能や歌舞伎は洗練の過程でその場におけるカント的な美学批判が脳裏にこびりついてしまうので基礎知識を入れた上で考えてみようと思います。芸能や娯楽といった言葉の定義も必要ですしね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?