子供意思表明について

 先日の気候変動サミットで一躍有名になったトゥンベリさんの演説。その賛否はともかく彼女の行為が礼賛されるのを少しだけ考察しようかと思います。

 先づ発言者が「子供」であるがゆえに「大人」の前でそして「世界」の前で発言出来ることを称えているという一面があるでしょう。我々には、子供という弱い存在が大人や世界という強く大きな存在を前にして堂々と発言出来ること自体を立派だと考えるの構造的な意識があります。これは一般なことです。さらに飛躍すれば本来強いはずの大人である自分にはできない行為を年端も行かぬ少女がしていることにある種英雄的な見方もあるのかもしれません。

 ではその内容について。環境問題というおそらく近代以来存在し続けるテーゼを選んでいますが、果たして彼女を賞賛する大人はこの内容すなわち彼女の主張について共感した上でそのような行為に至っているのでしょうか。彼女は環境問題を自身とは乖離した「大人」の問題として位置し、従ってそれを解決するのは大人の仕事だと述べています。肝心な行動について自らが行動するのではなく各国の代表を通してその国の大人が見るべき問題だとしているのです。無論合理性に焦点化すれば確かにストラテジックなものだと言えます。ここでいう合理性とは自らを演説の内容ごとコンテンツ化し広告塔になりメディアの発信を享受できる人々になんらかの気づきを促すという意味です。ここまでわかった上で物議を醸す内容、態度をとったのならば心から敬服します。しかしそうでない場合つまり本気で演説の内容を善としているのならば解釈する大人の傲慢を露呈するだけではないでしょうか。彼女を「子供なのによく考えられて偉いね」という対蹠点に置いているに過ぎないのだから。我々より幼くて弱くて薄弱な子供なのにこんな問題に意見を持ってることを賛美してるのです。

 上記から彼女の行為を非メタ的に讃えるのは大人>子供という構図を無意識的に受け入れているからだと思います。本気で対等な立場に立って彼女の主張に目を向ければ賛否ではなく分析と発展的議論が生まれるはずですから。まあ僕が一方的に大人に対したそう信じたい思っているのだけれど。

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