リアリティーとオーセンティティー

「〜らしい」という表現はいたるところで目にしたり耳にしたりすると思います。一般的な言い方であって誰しも親しみがあるはずです。誰かのモノマネをするときに本物よりも本物らしいなんて言い方もしたりします。このような場合は大抵本人の特徴を著しく誇張してみせることで我々はそう認識しています。ではドラァグの世界ではどうなのでしょうか。いわゆる「オカマ」と言われる人たち(かなり語弊を伴う表現になっていることはわかりますが便宜上こう言わせて下さい)が「女らしい」格好や立ち居振る舞いをするときそれは果たして本当に「女らしい」と呼べるのでしょうか。

まずは発話について考えたいと思います。実際に周囲の女性が「〜なのよ」「〜だわ」なんて言い方で話しているのを現実の世界で見る機会はそうないでしょう。日本語学的なアプローチを取ればフィクションの世界における「役割語」という概念があり例えばおじいちゃんのキャラクターのセリフが「わしは〜」とか「〜じゃ」なんて言い方を付してそのキャラクター性を強めることはあるそうです。では女性キャラクターが上記のような口語を発していることが現実へ投射されるという形でドラァグの世界へ流入してきたのでしょうか?仮にそうだとした場合この表象はドラァグの人々が空想の存在へ自己を変容させていることになるはずです。それは間違い無くオーセンティックなレベルでは実存しない表現に近づこうとする稀有な例として見て取れるでしょう。本来なら現実の世界へと作用する力を持たない作られた日本語が現存在としての一部の人々を変えうる強い力を持つのはある意味では言霊のようなそんな不思議な権力を持っている気がします。これ以上発話を議論するのは日本語学プロパーに譲りますが上記の拙説が妥当性を持たないわけではないと信じたいと思います。

身体表現についてはまた別のコンテクストが形成されるのではないでしょうか。かなり奇抜で派手な化粧はシス女性が一般にしているものとは異なります。この化粧の手段には2点の意義があると思います。①化粧をしているという事実性の強化②男性像の曖昧さの探究の二つです。前者は濃いメイクをすることで化粧をしている自分を確固たるものにし、それは自らに対する「念押し」のようなものとして作用しています。「私が私として女性が行為として行う化粧をしている」という事柄を自らに向けて発しているように見えます。したがってこの派手な化粧は化粧をする女性に近づくということを表象しているのです。後者は前者の裏返しのような一面があります。つまり男女という二項対立の世界において女性に近づくことで自己の男性性を忘却せしめんとしているのです。そして男性性の忘却というのは化粧の皮膚を覆うという特性を持っているが故に強化されます。こんな駄文なので名前と参考文献は明かしませんが、ある人類学者の方は皮膚は個人史を示すと言います。皮膚の色が人種を示したり刻まれた皺や染がその年齢を推察させたりする機能を持っているため、皮膚は自分の名刺の究極形ともいえるでしょう。そしてその情報は意図的に隠さない限り特に顔の場合は他者の視線に常に晒され続けます。その個人史を隠す手段として化粧があるのです。つまり(ジェンダー表現のレベルにおける)男性性を示すありのままの皮膚を隠すことでその男性性を見えなくしているのです。これは服装にも同じくです。「女らしさ」が過度に強調された服飾によって逆転的に男らしさを消し去ろうとするのです。

とりあえず言葉と身なりについて第三者的に(ここでは書きませんが厳密にいうとジェンダーの問題には二人称の存在になっているのですが)書き連ねてみました。何か不快感をもたらしたならばごめんなさいと一言謝罪させてください。ただこの「らしさ」という感覚はなぜだか分からないですがとても重要な気がします。また思いついたことがあれば追記するかもしれません。その時は何卒。

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