目線の話

先日提出した講義の期末レポートがそこそこ気に入っているので成仏させようかなと思います。バルトとサルトルといった同時代の文筆家の考えの本の一部を比較してみました。以下転載です。

とりわけその「視線」に着目して考える。まず講義で扱ったように、バルトにとって恋愛主体とその対象は性別を限定されておらず、『ミシュレ』にあるように両性具有的だ。「ロラン・バルトの作品と生をとりまく女性的な環境-彼はこの環境の人であり、その女性的なるものの手で薫陶を受け、女性的なるものの世界へと導かれていった」(鈴村p.101)ことが背景にあろう。そしてこの両性具有的な考えのもと「『ミシュレ』にバルトは書いていた−「女性性は明るみに出され、好きなだけà discrétion見られている」と。(中略)ここでバルトがdiscrétionという語に、一方の意味から他方の意味に向けての「目くばせ」を行わせている」(同p.108-109)のである。その著書『恋愛のディスクール・断章』において、自らの目線を「他者の肉体を掘り下げる」ものとして捉えたバルトだが、このような恋愛主体としての視線はサルトルにおける愛にも見て取れる。彼にとって人間が存在するにあたって何かに対して意識の「無」を証拠立てる疑問や否定をぶつけることは必定でありそれを「自由」としている。そして我々はサルトルの「人間は自由の刑に処せられている」(サルトルp.51)に表現されるように自分の存在は無であることを忘却している。そしてものを定義する「即自」と人を定義する「対自」の二つの概念を提示した。従って私たちが他者の視線を恥ずかしいと感じるのは対自である私が即自として扱われるからだ。しかし、一方で私も他者を即自化している。このような相互の内的な否定を「相克conflit」と定義したサルトルはこの一形態として愛を捉えた。すなわち愛とは私が自らを即自化して、できるだけ他者の自由に合わせようすることである。両者の「視線」への意識の共通性があるだろう。一方で二人の間で大きく異なることはバルトは自らの目線を恋愛の対象に向けるのに対してサルトルは恋愛の対象からの目線を想定していることである。しかし愛を考えるにあたってどちらも目線に対する一定の意識があるのが興味深い。       参考文献
・鈴村和成著『現代思想の冒険者たち21バルト テクストの快楽』1996年 講談社
・サルトル著 伊吹武彦訳『実存主義とは何か』1955年 人文書院      以上

なぜこのような駄文をここで吐き出したかというのは近年流行のフェミニズムでいう「性的消費」に通底するものが感じられるからです。直接的にこの言説について評価したり分析することはしません(そもそもできません)が、端的に目線に注目して哲学的に考察するのも面白いかもしれません。

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