KINZTOのDr.ファンクシッテルーだ。今回は「どこよりも詳しいVulfpeckまとめ」マガジンの、49回目の連載となる。では、講義をはじめよう。
(👆Vulfpeckの解説本をバンド公認、完全無料で出版しました)
今回はVulfpeck(ヴォルフペック)のメンバー、
Joey Dosik(ジョーイ・ドーシック)について、どこよりも詳しく紹介する記事の2回目だ。
👆前回の記事では、Joey Dosikの人物紹介や、代表曲の解説などを行った。今回は、その経歴について深堀りしていこうと思う。
さまざまなインタビューや資料から情報を集めてきたが、そこには日本語に翻訳されるのが初となる情報もかなり含まれている。
ぜひ最後まで楽しんでいただきたい。それでは、始めよう。
幼少期~中学時代
Joey Dosikの生年は1985年もしくは1986年。(参考:Los Angeles Soul Artist Joey Dosik Shares His 'Inside Voice,' and Jazz Tales, on The Checkout)
カリフォルニア州ロサンゼルス市のサンフェルナンド・バレー地域にある、ノースリッジで育ち、高校まではロサンゼルスで生活していた。まずはその時代を紹介していきたい。
幼い頃からバスケットボールを愛していたJoeyは、同時に音楽にも目覚めていく。5歳でピアノを始め、そのうち作曲もスタート。
さらには、10歳でサックスも吹き始めた。
ちなみに9年生(中学3年生)の時には、学校主催の募金を募るイベントで、学生の保護者であったというエディ・ヴァン・ヘイレンと共演している。こちらにはサックスで参加したとのこと。
高校時代
高校に進学したJoeyは、ピアノではなくサックスでの音楽活動がメインになっていた。演奏ジャンルはジャズ。
この頃はロサンゼルスの複数のコミュニティでセッションに参加したり、また自らのジャズバンドでもライブを行っている。サックスは地元で知り合った先生に習っていたようだ。
ちなみに、この高校時代にセッションなどでカマシ・ワシントン、サンダーキャット、ブランドン・コールマンと出会っている。彼らはロサンゼルスの「レイマートパーク(Leimert Park)」という地域で凄腕ミュージシャンのコミュニティを形成しており、Joeyもそこに飛び込んでいっていた。
またJoeyはこの高校時代に特筆すべきこととして、フリージャズのレジェンド・ベーシスト、ヘンリー・グライムスが音楽シーンに復帰するためのバンドに参加している。
ヘンリー・グライムスはアルバート・アイラーとの共演も有名だが、本当に多彩なジャズマンのアルバムに参加し、1960年代のフリージャズ全盛期を多いに盛り上げたレジェンド。そんな人物と高校生にして、1年間も同じバンドにいたというのは、どれだけ大きな出来事だったのか計り知れない。
こういった経験によって、彼はいよいよジャズのサックス奏者として、音大へと進学していくのである。
ミシガン大学時代
高校を卒業したJoeyは、ロサンゼルスを離れ、遠くミシガン州のミシガン大学アナーバー校へと通い始めた。入学は2004年、ジャズサックスで奨学金を得てのことだった。
この発言から、Joeyが大学生活でのめり込んでいたジャズに、フリージャズがあったことが伺える。これはやはり、高校時代のヘンリー・グライムスとの共演が影響を及ぼしているのだろう。
現在のJoeyのサックスプレイからは、過去にフリージャズに影響されていたということはあまり伺うことができない。そういう点で、この話はとても面白いと言えるのではないだろうか。
ちなみにこの時期のインタビューが残されているが、それによれば大学2年までに、レオン・ンドゥグ・チャンクラー(マイケル・ジャクソンのBilly Jean、P.Y.T.、Baby Be Mineを叩いたジャズドラマー)など、複数のレジェンド級のジャズミュージシャンと共演したことが明かされている。
レオン・ンドゥグ・チャンクラーと共演したのは、こちらのレイマート・パークのミュージシャンが集ったアルバム。同作にてJoeyはカマシ・ワシントン、ブランドン・コールマンとも共演。
この大学時代は学内でも優れたプレイヤーとして名が通っており、後輩からも一目置かれる存在であったということを、後にVulfpeckで共演するWoody Gossが語っている。
ちなみに、今名前が挙がったTheo KatzmanとJoeyは、なんと大学生活中に一緒に暮らしていた時期があったという。
Theoとはこの大学時代、一緒に住んだだけでなく、同じバンドもやっていた。それがMy Dear Discoである。
My Dear Discoは、同じミシガン大学のTyler Duncan(後にVulfpeckのレコーディングなどに大きく貢献する人物)が始めたバンド。最初はToolboxという名前で2005年に発足、2007年にヴォーカルを加えてMy Dear Discoとなった。Joeyはこの段階で参加している。
Joeyはこのバンドでは主にキーボードを担当。内容もジャズではなくエレクトロ・ポップで、こうした音源からJoeyが当時はジャズ以外にも幅広い音楽に携わっていたことが分かる。
My Dear Discoは2008年に有名になり、全米のフェスやテレビ番組にも出演。2009年にはTlyerによれば「170回くらいライブをした」くらい精力的に活動、ミシガン大学のアナーバーでも著名なバンドになっていた。
Woody GossがMy Dear Discoの追っかけになっていたり、My Dear Discoのライブを観たことでJoe Dartがバークリー進学を辞めてミシガン大学に進学することになるなど、熱狂的な支持を集めていたのである。
大学時代のJoeyの大きな活動としては、やはりこのMy Dear Discoが挙げられるだろう。
Joeyは2008年に大学を卒業、2009年9月までMy Dear Discoに在籍した。ちなみにJoeyが辞めた後はTheoも辞め、その後はベーシストとしてJoe Dartが参加している。Joeが参加した段階でバンド名は「Ella Riot」に変わったが、バンドは2011年に活動休止となった。
(ちなみに、このMy Dear Discoのドラマーが、Ice BoyとしてVulfpeckのライブに参加したMike Sheaである)
Joeyは大学時代、他にもいくつかのレコーディングに参加しているが、どれもジャズアルバムではなかった。このあたりも聴いてみると面白いだろう。
JoeyはMy Dear Discoの活動中は大学を卒業してもミシガンに残っており、2009年9月の脱退後、ロサンゼルスに戻ることにした。
大学はジャズサックス奏者として進学したが、こうした大学生活でジャズ以外のバンドに誘われ、精力的に活動したことが、Joeyの未来を大きく変えていったのではないかと思われる。
なぜなら、2012年にVulfpeckに参加したのも、同じようにジャズ以外のバンドに誘われてのことだったからだ……。
それでは、今回の記事はここまでとなる。
次回はこの経歴の続きを、2023年現在まで解説していこう。👇
―――――著者情報――――――
Dr.ファンクシッテルー
宇宙からやってきたファンク博士。「ファンカロジー(Funkalogy)」を集めて宇宙船を直すため、ファンクバンド「KINZTO」で活動しています。
「KINZTO」の活動と並行して、音楽ライターとしても活動しています。
■バンド公認のVulfpeckファンブック■
■ファンクの歴史■
■Twitterでファンクの最新情報・おすすめ音源を更新■