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ミラノへ還るプロセス

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It does not matter how slowly you go,so long as you do not stop./confucius

とまりさえしなければどれほどゆっくりでも進めばよい。/孔子

シルクロードに大倉山

最初に住んだのは鴨居だった。5年住んで大倉山にきた時、私は28だった。

大倉山にきたのは今から約20年ぐらい前になる。だから横浜市には計25年住んでいる。
1998年の1月31日に大倉山に越してきた。アパマンで電話をしたら上野の不動産屋に繋がって上野まで行くと厚い台帳をみて部屋を探したらこれは?ときくとさっそく内見に行ってみますか?と言われて1人で行った。

駅を降りるとバス通りを歩いて15分ぐらいでその頃はそれほど遠く感じなかった。白い2階建てアパートが二棟あってそのひとつの角部屋だった。
部屋に入るとワンルームだけど8畳ぐらいで出窓からは午後の明るい陽がさしていて一目で気にいった。南向きでベランダのシャッターを上げると部屋中がとても明るい。太尾新道という国道が道を挟んで通っているけど周りは閑静な住宅街で静かだった。
その頃は近くに成城石井もあってフローリングの床に座りこんでここでいいわ、そう1人で喜んだ。

契約の不動産屋は池袋にあった。上野や池袋なんてふだん縁なんてないけどなぜかその時何度か足を運んだ。そういえば横浜にきたばかりの頃土地勘をつけるためにいろんな美術館に行って東武美術館のルノアール展で話題の「羽根帽子の少女」をみた。池袋に行くとそういう再会の気分になった。上野も国立西洋美術館でロダンの庭も知っている。所蔵のモネの水蓮もあのピンクの大きな抽象画も思い出した。そして就職もきめた。

最初に入ったのは2月4日(覚えてる!)に赤坂ニューオータニのエスカーダに正社員で入ってあわなくてソッコー辞めた。しかしブラブラするワケにいかずとらばーゆでエルビスに応募した。エルビスとは西武の子会社で原宿にあった。扱っている募集していたブランドはソニアリキエルとミッソーニとフェレだった。面接に行くときてもらうとしたらミッソーニです、と言われた。ニットブランドだと知っていたので「私は布帛がやりたいです」というとずっと黙っていた店長さんが笑って布帛もありますよと言われた。そしてミッソーニに契約社員で決まった。3月5日からだった。(覚えてる!その前日に女友達ふたりと伊豆の温泉に行った)
そしてたぶんそこから私はミラノコレクションに惹かれはじめたと思う。鴨居にいた頃国内アパレル会社に勤めていて社員食堂で雑誌で一目みてステキ!と思ったドレスがあった。でもその時はまさかその後そのブランドの実物に再会するとは思いもしなかった。

物事にはやはりプロセスがあってすべてが調和をとりながら繋がっていく。

皇室ファッションのミッソーニ

表参道の路面に80坪のミッソーニがあった。あの店は今でも覚えてるけど客層がすごかった。
ミッソーニっておなじようなニットだけのブランドのイメージで確かにそれにあわせるジャケットやボトムも布帛であるけどほぼほぼ、ニット。

しかもあのオリジナルのいろんな色の糸を絡み合わせて織り上げたニット。

あれをフィアンマート(大理石)とよんだ。

一番のセレブリティは誰だったか?
ときかれたらやっぱり宮様ということになる。国内アパレルにいた頃日本橋高島屋で皇室の方をお見かけすることはあったけどこんなに間近でみることはなかった。
高円宮様と妃殿下が顧客でふつう宮内庁の人がくると思うけど宮様が実際に目の前に現れてそれがそのショップではフツーだという。私が入社した時立て続けにパーティーがあった。ひとつはフォーマルでミッソーニ一家が来日した時だった。もうひとつは顧客をもてなすためのショップを閉めて人気のイタリアンのケータリングをいれてイタリアワインパーティーだった。
私は28だったけどその中では完全に若手で笑っているだけでいいです、売らなくて。と言われた新人だった。だからお皿を下げたりお茶を出したりワインを次々開けてバックヤードから持ってくる役を黙々とやった。店長さんも上司の方にもよく動く人でよかったと喜んで頂けた。前職で2億売れたから4億売ってほしいといわれて「もうムリ!」泣いたあの時はいったいなんだったんだろうと思い出した。

夜逃げみたいに辞めても道は続く。そう思った。

すごく美しい美貌のまるでイタリア人みたいなテラコッタマダムが現れた。横にいたスタッフが新人の私の腕をつついた。「遠藤夫人!遠藤夫人よ!」誰?それ?ときくと日本のセレブリティにインポートブランドを紹介するプレスのような人で宮様にいつも付き添っていた。ある時ものすごく真剣に社内の人が悩んでいた。高円宮妃殿下と遠藤夫人のきらめくスパンコールのニットドレスがおなじ物で妃殿下がブラウン、遠藤夫人はゴールドだった。これは大変だということで遠藤夫人は当日ジャケットとパンツに変更になった。

宮様がダンスを始めるまで誰も踊ってはいけないとかミッソーニ一家の娘のアンジェリーナはカンツォーネがキライだからぜったいかけてはいけないとか、とにかく問題が山積みで新人だけど構ってあげられなくてごめんね、と言われてなんか幸せだった。

ワインパーティーでは宮様のワインも関係なく私が開けた。フツーのバタフライになった栓抜きでポンポン次々に開けた。みんな宮様がすぐにお帰りになると思っていた。ところがその日すごくご機嫌で長く居られたのでこういう事は珍しいと会社中で驚いていた。奥からチラ見するとワインのコルク(私が開けた!)をいくつも鼻もとに持っていかれてずっと手元に置かれていたのを覚えている。

こんどもっとワインソムリエの渋谷さんにきいてみよう。

じつは私は高円宮様にミッソーニのネクタイを20本ご献上しに店長さんと赤坂御所にいく予定になっていた。当日店長さんだけいくことになったけど勤続していたらそういう事も多々あったかもしれない。宮様はぜんぶ気に入ってくださってすべてご献上したと言っていた。宮様の愛用ブランドも教えてもらった。どうもエルメスとバーバリーでご公務にはそうなのかもしれない。

だからあんなに早く亡くなられてすごく驚いた。しかもスカッシュをされている時に?私はこのような直接的ではないけどなにか間接的に関わる事があるのではないかといつも考え込んでしまう。考えすぎだといわれても。時は流れて風の便りにミッソーニはオンワードに吸収されたことを知った。エルビスやあの時の西武系の社員さんたちはどうなったのだろう?そういえば当時の西武の社長さんに和田さんという方ではなかったかと思う。

タイタニックのサルベージ

その後、私は転職して銀座の街で新たにミラノコレクションを扱う事になった。
雑誌で一目みてステキ!と思ったドレスのブランドでミッソーニとおなじようなニットが60%を占めるブランドだった。私には昔、アパレルで同期だった今は関西にいる友人1人だけで友達がほとんどいない。

大倉山のアパートに住んでいた隣にテキスタイルデザイナーを在宅でしていた人が住んでいた。

洋服ダンスの中のそのブランドを見せたら、こういう奥行きのある絵は日本人の感性では描けない、私が高価なのに欲しがる気持ちをわかってくれた人だった。

きっと相当な数の物を見てきたからこういうのに行き着いたんだよ、と言ってくれた。今はどうしているのだろう?岡山に帰られたのかな?アパートは大家が行方不明になって港北区役所で競売にかけられて売れたので私たちは即退去になった。

ミッソーニを辞めてブルマリン(当時の商標はアンナモリナーリ)に入ったばかりの頃コレクションはものすごくトレンドだった。テーマは映画タイタニックにインスパイアされたものでフェミニンというか、ミステリアスな要素が強いクセのあるブランドだった。タイタニックを観たのは遅くて話題だった頃友人からタイタニックを何度も繰り返し観てしまうほどいいと言っていた。

そういえば外国人にドレスを売った時にこれはあうかしら?と蝶々の髪飾りを出された。鏡の前で金髪につけてあげた。きっとコレクションテーマを知っていた人だったと後で思った。

小室さんは私が大倉山にきた当時はたぶん10才ぐらいだったのではないかと思う。
小室さんがアルバイトしていたフレンチのビストロは今はもう閉店して店主は厚木に引っ越したときいた。向かいにあるスーパーのマルエツは今もあるしレジ打ちのパートさんの中にはその頃を知ってる人もまだいると思う。マルエツにくる途中の道にいつもいた浮浪者風の男の人と女の人も長年ずっといたのに急に見なくなった。どちらか1人だけならわかるけどふたりとも。夫婦ではないと思う。でもいつもいた。マルエツに長くお勤めされている人や地元の人であのビストロにきていた常連さんはたくさんいると思う。そういう人の中には小室さんを知る人もいるかもしれない。ところで街のムードがどうも以前と変わったと思う最大の場所はどこだと思う?私には今も昔もおなじ場所にある港北区役所ではないかと思う。転職する度、少なくとも時々はいく用事があったりする。役所で用事があってきている住人に怒鳴り散らしてるメガネの職員がいた。何年かしたらその職員は別人みたいに気持ち悪いぐらい穏やかに変わった。ハローワークもそうだけど今はもう全然違う。区役所の中のあの空気感がなぜか好きになれない。

横浜にはタイタニックがある。元町・中華街にあるバーニーズNYがそれであのお店はできた当時その外観は豪華客船タイタニックをイメージしたと言われた。私が横浜にきた当時もちろんバーニーズにも行ったけどインポートばかりのカッコよさがあって置いてる物も今とは全然違うもっと海外の香りがあった。ダナキャランやカルバンクライン、アーティストの斬新な作品の個展のようなアクセサリー売場とディスプレイにガーデンをイメージしたテーブルコーディネートを今でも覚えている。あの空気感はよかったけど2011年に行くと全然別物になっていた。私がバーニーズに入った時に問題が起こりだした。もしかしたらホントにタイタニックでサルベージ(海底からの引き上げ)のチャンスがあるかもしれない。最近元町・中華街にいくとふと、見かける今も変わらないバーニーズNYをみてそう思った。

さんどりあん