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娘が生まれた朝

社員旅行で訪れた温泉旅館のフロントから呼出しを受けた。午後7時。宴会が始まる直前のことであった。「奥様が切迫流産で入院することになりました。今すぐ病院に来られますか?」という内容だった。何のことだかさっぱり分からない。安定期に入り、母子ともに順調だったのに。
 
上司と幹事に事情を話し、すぐにタクシーを呼んだ。暗く細い道を右に左に揺られながら最寄り駅に向かった。事情を知らない運転手がしきりに世間話を持ちかけてくる。ずっと上の空だった。
 
幸いなことに最終列車に駆け込むことができた。車両には私しかいない。4人掛けのボックスシート。トンネルに入るたび、窓に映し出される自分の顔をボーっとながめていた。
 
病院に駆け込んだのは午後11時。面会は断られた。看護婦さんに状況を聞くも、あいまいな答えしか返ってこない。とりあえず無事であることを確認してアパートに帰った。
 
翌朝一番で病院に向かった。先生から説明を受けた。しばらく入院が必要とのこと。ようやく会えた妻は「ごめんね」を繰り返す。状態は少し落ち着いたようで、胸をなでおろした。
 
数週間の入院を経て、ようやく妻はアパートに戻ることができた。その後は特に大きな問題もなく、予定日を迎えた。
 
夜になって陣痛が始まった。隣人に借りたワゴン車で病院に向かった。30年も前のことである。夫の出産立ち合いなどできるわけもなく、自宅での待機を命じられた。
 
翌日は大事な技術研修が入っていた。当時たずさわっていた仕事を円滑に行うためには、どうしても出席しなければならない研修だった。遠方の施設での開催だったので、朝6時過ぎに家を出ようとしていた。

7月末。すでに気温はぐんぐん上がり始めている。そのとき電話が鳴った。病院からだった。「元気な女の子ですよ。奥様も無事です。」
 
心臓の鼓動が一気に早くなった。汗が噴き出して、下着はもちろんYシャツまでビショビショになった。会いたい。すぐに会いに行きたい。

でも今日の研修を受けないと、仕事に大きな支障が出る。選択の余地はなく、歩いて駅に向かうことにした。
 
朝6時半。すでに陽は高く、日差しが肌に突き刺さる。澄んだ空気は少しだけ夜の涼しさを残していた。セミの声がひときわ大きくなってきた。見上げる空はどこまでも青く、ところどころに夏雲が浮かんでいた。

駅への道、少し小高くなったところがあり、そこから遠く海をのぞむことができる。

真夏の強烈な日差しを受けた海面は、いつも以上にキラキラと光り輝いていた。私は立ち止まり、美しく揺れ動く光のつぶを見つめた。青い空とのコントラストが、その美しさを引き立てていた。
 
たった今、父親になった。

初対面は夜になるだろう。
どんな顔をしているのだろうか?
泣いているのか? 眠っているのか?
母乳はちゃんと飲めるのだろうか?
 
そんなことを思いながら駅へと足をはこんだ。途中、小さな祠に立ち寄った。手を合わせ、まだ見ぬ我が子の幸せを心から祈った。背中を汗が流れ落ちる。自然と笑みがこぼれた。

透きとおった夏空、真っ白な雲、澄んだ空気、強烈な日差し、そしてセミの大合唱、、、あの美しい夏の情景は、今も色あせることなく脳裏に焼きついている。
 
夏美と名づけた。

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