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「苦労は買ってでもしろ」という虚構

「若いときの苦労は買ってでもしなさい」「若いときの苦労は年を取ってから花開くから・・」などと先輩諸氏からよく聞かされる言葉。本当にそうであろうか?では、逆に苦労せずに年を重ねた者は、人生の味が出ないのだろうか?小生は、決してそのようには思わない。そもそも苦労とは何だろうか。さまざまにぶち当たる人生の難題だろうか。金銭的なやりくりだろうか。生まれてこの世に生を受け、日々の暮らしを重ねること、そのものが全て苦労の連続なのではないのか。「生きる」とは、苦労の積み重ねであると思う。日常の日々が、苦労の連続だし、ストレスとの戦いだと感じる。そんな苦労は、できるだけしない方が、人生として得のように感じるのだが・・

自分のところと比較すると・・・

「あそこの子どもたちは、幼稚園からエスカレーターだから何の苦労もないよな」「あいつは、しょせん、親父の会社継げば良いんだから苦労知らずだよな」「あそこは、金持ちだから金銭感覚ゼロだよな」などと井戸端会議風の会話をよく耳にする。確かにそうだ。あらかじめ引かれたレールを確実に進んでいくことができること。そのことで、人生のステージを歩んでいけることは、ラッキーなことだ。でも、それもしょせんは、自分の今置かれている境遇との比較でしかない。人生には、「いつか逆転!」というドラマティック性がある、と小生は思うのだが・・・。
両親のどちらかが東大卒の子どもは、概して高学歴とのこと。両親が東大卒ゆえ一部上場企業などに就職する率が高い。そのため、給与も高い。自ずと子どもにかける教育費も余裕があり、そのことが結果として子どもの教育訓練(あるいは受験対策か・・)向上に寄与して、高学歴につながっているというのが通説だ。確かに小生の周りを見渡すと、そのような事例が散見する。「高学歴の取得=試験に合格する」という従来からの世の中の構図と仕組みだからだ。とにかく、目の前にある試験をパスする。合格すれば、○○大学卒のパスポートを得る。そのことが、結果としてその後の人生を大きく左右する。だからこそ、「エスカレーターの人生」も成り立っていると小生は感じている。

「女王の教室」に見える社会的な価値観の違い

以前「女王の教室」(2005年)という、天海祐希主演のテレビドラマがあった。記憶にある皆さんもいると思う。その第1回目の放送で、阿久津真矢(天海祐希)先生曰く、「この世で幸せになれるのは、たった6%だけ。それ以外の人は、その6%の人のために奉仕する人生を送るんです。」と言い放つ。そのほかにも当時としては、ドキッとするような台詞が毎回テレビ画面から生み出された。とりわけ、今ならばBPO審査対象かもしれない。
確かに、そのとおりだ。高学歴社会で生き残れるのは、阿久津先生のお説どおり、6%程度の人たちだけなのかもしれない。人生を謳歌するためには、
この6%に入らなければならない。さらに、この6%に入ったその先にも頂点に向けてのサバイバルレースが展開される。
人には、それぞれの価値観があって良い。目指す人生が、学歴にこだわり、あらかじめ決められたレールをひた走るものでも良い。肝心なのは、自分の信ずる道を地道だけれども一歩一歩と歩を進め、心穏やかに過ごせる毎日を送り、その人にとって「充実した人生だった!」という満足感が得られた人生であったかどうかだと、小生は感じている。自分の葬式で何人の人が泣いてくれるかが、その人の価値を決めるのではないか・・と、小生は勝手に思っている。

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