見出し画像

短編小説 『樹神(ククノチ)』

 もう既に人影は無い。あるのは木々と、果てしなく続く道路だけだった。生い茂る木々が外界とを隔てる。太陽はすでに山の背後に回り、赤い空が太陽がまるで出血したかのように広がっている。その後には暗黒の世界が広がっている。私は無人駅を降りてから、すでに数十分歩いている。
 生い茂る木々と暗黒の視界は、まさに孤独を象徴していた。自分を映す鏡のようだ。私は心の中と外界との類似性に少し興味を感じた。だがそれも、今の私にぽっかり空いた空白を埋めるのには全くと言っていいほど充分ではない。


 事の起こりは労働中での出来事だった。金城竜也は、いつものようにチェーンソーを片手に森林を歩いていた。今思い返せば、労働中の貴重な休憩時間が迫っていたので、気が抜けていたのかもしれない。
 金城は休憩時間の間、木々の間から漏れ出す日差しを眺めながら、自然が生み出すイントネーションに浸り、家で入れてきたブルーマウンテンを魔法瓶で飲むのが習慣だった。それは五十歳を過ぎてから続ける贅沢な習慣であったが、林業という過酷な労働に見合う対価と思って、この習慣を見につけるようになっていた。
 林業における「間伐」は、木々が水分を上げなくなって乾燥する晩秋から冬に行われる。それは、夏に木々が水分を保持しやすくなって伐採がしにくいためであり、逆に乾燥する時期は木を伐採しやすいのである。
 岩手県の冬季の山中は、金城のように五十を過ぎた人間にとって、鞭を撃たれるような感覚である。しかし金城は、都会を全くと言っていいほど好まなかった。自然が何よりも好きだった。排気ガスが立ち込め、賑やかな商店街に身を置くよりも、こうした鬱蒼として澄み切った空気に包まれた森に身をおく方が、金城にとって何よりの幸福だった。


 手頃な木を見つけ、早速切ろうとした。木々を伐採する際は、「追い切り口」という技術が使われる。まず木の一面に切り込みを入れる。これで木の倒れる方向が決まる。最初の切り込みの深さはおよそ木の直径の四分の一である。これは大体でいい。熟練者なら目視でおおよそ正確に切り込みを入れられる。次に、最初の切り込み口の真反対に水平に切り込みを入れる。入れる高さは、最初の切り込み口より上である。これも大まかな高さが決まっており、木の直径の15から20%の高さにとる。そうすることで、最初の切り込みに自重で力が加わり木が倒れてくれるというわけである。


 金城はいつものように追い切り口を行おうとした。この大物を伐採し終われば、休憩時間である。今日のブルーマウンテンはいつも以上にうまく淹れられた自信があった。
 檜政三は、林業に携わって50年のベテラン中のベテランで、今までも大きな怪我したことはなく、林業から逃げ出す人間が後を立たない現代においては稀有な存在だった。
 彼は今日も相変わらず作業場をみて回り、何かミスがあれば72才とは思えない声量で叱責した。しかし今回に関しては、彼は最大で唯一のミスを犯した。
 彼は、上で金城が「倒れるぞ!」という声を出しているのを聞き逃した。そしてなんの不幸か、金城も木が倒れるところを檜が歩いているのに気が付かなかった。木が倒れ始めると、檜も金城も、お互いが気づくべきことにようやく気づいた。しかしもう遅かった。
 木は猛烈な勢いで山肌に倒れ込んだ。檜の姿は、まるで異次元に吸い込まれたかのように消えた。
 檜はすぐにドクターヘリで運ばれたが、介抱虚しく死んだ。享年72。もう木々の間から日光は漏れ出さず、薄暗くなり始めていた。
 金城は逮捕・起訴された。弁護側は木を倒す際に大きな声で注意を喚起していたことを理由に反論したが、周囲の確認の怠り、最終的に人が死んだという結果には一つとして響くことはなかった。金城は懲役3年の禁固刑に処せられた。
 3年後、金城は釈放されることとなったが、それでもこの罪悪感は消えることがなかった。


 道路を歩く金城は、無心だった。むしろ何も考えたくなかった。ただ歩いて進むことだけを考えて、そのほかの思考は全て夜の暗黒の森に捨て去った。
 無人駅から30分ほど歩いて、整備された道路から完全に外れて山道に入った。ここは神有滝という知る人ぞ知る滝がある。現地の人しかほとんど存在を知らず、ネットで検索してもろくにヒットしないが、その神秘的な外観と壮大な自然から、秘境として冒険家の間では囁かれている。
 だがこの地域は、その滝の存在をかき消すほどに不名誉な噂で全国的に知られている。この滝周辺での行方不明者が跡を立たないのである。去年だけでも三件。今年でも二件行方不明事件がある。ここ10年で警察が捜索を幾度となく行ったが、遺体はおろか痕跡すら見つけることができなかったという。そんな経歴から、この地域にはこのような伝説が囁かれるようになった。この森に行こうとするものは、滝を守る樹神様が神隠しを行う、と。
 金城は釈放されてからというもの、こうしたスポットを探すことに没頭していた。理由は至極簡単であった。
 死にたい。
 このような永久に消えない心の空洞を抱えながら生きることは、ただの苦痛でしかなかった。普通に自殺すると、死体が残って後味が悪い。ならば存在を消してくれるところはないかとブラックサイトを徘徊した。そして、樹神様の神隠しの伝説に行きついたのだった。山奥に行くにつれ、月明かりさえも陰りつつあった。山道もかろうじて歩ける程度で、一般人ならとても行けそうにない。元林業労働者の金城だからこそこの道は歩いていけた。


 ここで金城は、背筋に冷ややかな感覚を覚えた。目の前に二つの赤く光る目が現れた。野犬だろうか。鹿だろうか。この辺りにはクマも出るという。行方不明になるとはとはこういうことだったのかと金城は思った。金城は思ったよりも早く死を覚悟した。
 しかし、赤く光る目は、1分近く経っても金城を襲うそぶりを見せなかった。暗闇の中をうろうろしながら、ずっとこちらの様子をうかがっていた。時間が経つにつれ赤く光る目は増えていき、いくつも金城の視界に現れたが、それらも全て同じ反応を見せた。
 5分ほど経っても何も起こらなかったので、金城は再び暗闇に歩き出した。怖さはもはや感じていなかった。
 暗闇はより一層深みを増した。赤く光る目は、いまだに金城の周りを蛍のようにうろうろしていた。金城の目は長いこと暗闇にいたことで慣れ始め、周囲の状況が多少はわかるようになっていたが、赤く光る目の正体は、まるで黒い外套を纏っているかのように絶妙に暗闇に溶け込んでいていまだに分からない。
 しばらくして、大量の水が落ちる音が聞こえ始めた。金城は微かに川の匂いを感じた。そして暗闇に裂け目ができているかのように、眼前に木々の隙間が見えた。
 隙間を抜けると、川に降る山道が続いていた。川の音はより増した。そして木々の間からは、月明かりと星あかりに照らされた川が流れている。
 坂道を下ると、山道から見るよりもさらにごつごつした岩が大量に見えてきた。その岩を迂回すると、高さ十数メートルはある滝が現れた。滝の落下点には大きな池があり、まるで鏡のように夜空を照らしていた。これが神有滝なのか。金城はそう思った。金城は、大量の岩の上を歩きながら滝に近づいた。ごつごつした河原は金城の足裏を押し、金城もこればかりは、普通の靴で来たことに後悔した。
 本日二度目の冷ややかな感覚を金城は覚えた。池の前の河原に老人が一人座っている。金城は、最初はキャンプをする一般人かと疑ったが、男は道具も何も持っていない。金城は途方もない気まずさを覚えたが、池に映る夜空を見て昂る心臓音を静ませた。


 「ところで」老人は急に口を開いた。金城の姿をちらりとも見ず、鏡のような池を見ながら質問した。
 「お前はなぜ故ここに来た?」老人の声はしゃがれ、しかしながら貫禄と渋みを蓄えている。
 「私は死にに来ました。あなたこそなぜここに?」
 「わしのことなぞどうでもいい。なぜ故に死ぬ?」老人は自分のことは意地でも応えないと言わんばかりの口調で返した。金城もこの神秘的な風景とここに来た目的ゆえ、もはやどうにでもなれという感情だった。
 「私は人を殺しました。したくてしたのではありません。しかし結果的には自分が殺したも同然です」金城は涙を流した。その涙には二つの意味が込められている。檜への謝罪と、この自然への感動である。
 「したくてしたわけではないのに、、、か。はっはっは。世の中は未だに、そういった理不尽が詰まっておるな」老人は未だに、金城の方を見向きもしていない。
 「理不尽。そう理不尽です。偶然とは残酷な理不尽を生み出してしまった。私はその理不尽の蜘蛛の糸に絡まった哀れな蛾です。蜘蛛の糸に絡まった蛾が待ち受けるのは死。理不尽に絡まった人間の末路もまた、精神をどうにかされて死ぬのです」金城は言った。
 「お前は何をしていた?」老人は質問した。
 「林業です。私は自然のために尽くしてきた。それが自然によって人生を狂わせるとは、なんとも笑えますね、、、」金城はため息を吐く。
 「笑えるか。そうだな、確かに笑える」老人は返した。老人はまだ、池を眺めていた。金城もそろそろ老人との会話を切り上げ、この未練を断ち切る行動をしようかと思っていた。


 金城が後ろを向くと、先ほどの赤く光る目が、金城のことを池に追い詰めるように囲んでいた。赤い目の正体は狼だった。狼は半円を描くように陣形をとり、金城はどこにも逃げることは出来ない。狼はグルルという唸りをあげ、金城が少しでも動いたり逃げようとすれば、一斉に襲い掛かってくるだろう。
 「ククノチ様、、、。此奴を受け入れなさるか」老人が言った。老人は金城のことを初めて見ていた。
 「なんのことですか?」金城は質問する。
 「ククノチ様はお前を受け入れるのだ。ククノチ様は、この日本の神羅万象、あらゆる自然を司っている。自然の木々植物一つ一つには、魂が宿っている。ククノチ様はそれらを全て司り、同時に、それらを害したり、逆に育むような人間どももよく観察しておられるのだ。なぜ自然は成長すると思う。それは破壊があるからだ。人間どもも、骨は一度折れると、その後強くなって再生する。自然とて同じことなのだよ」金城は呆然として聞いていた。そして改めて質問した。
 「貴方は何者ですか?」
 「わしはただの門番に過ぎん。この世と霊魂世界をつなぐ門のな。本題に入ろうか。お主は確かに罪を犯した。しかしそれは、自然が成長する過程に生まれたある種の摩擦に過ぎん。お主が殺した者も、自然が成長する上での摩擦で死んだのだ。破壊は人間が行い、そして再生、即ち成長を、我らがククノチ様は行っているのだ。そこでお主には、選んでもらいたい。再びこの世界で林業を続けるか、霊魂世界でククノチ様の元で、自然と一体になるかだ。ククノチ様は、お主を神聖なる霊魂世界に入門させることを了承した。お主なら、木々となり、草となり、花となり、あらゆる植物の成長とともにあり続けられるだろうということだ。お主の自然を思う心は普通ではない。愛していると言ってもいい。ククノチ様は、お前を家族にさせてくれる。だがそれを決めるのはお前次第だ」
 金城は老人の話の一部始終を聞いて、もしこの話が本当なら、霊魂世界も悪くないと思っていた。冗談のような話だが、この地域にまつわる噂、「樹神様の神隠し」が本当なのだと考えれば、辻褄は合う。金城は、ある種の誘惑に誘われていた。だがここで金城の中に、一つの抵抗心が芽生えていた。「これを受けることは、残酷な現実からの逃避だ。それでいいのか。」自分と同じような境遇の人間は何人もいるのだろう。だから自分だけが逃げていいはずがない。自分は確かに死にたかった。だがそれは裏を返せば、逃避に他ならない。


 「早くしろ、ククノチ様が痺れを切らしている」老人は急かすように言った。しかし金城は何かを決意した表情で答えた。
 「私は何か、自分自身で頭を黒い布で覆い隠していたのかもしれません。私は気づきました。私は死んだ彼に対する懺悔は死しかないと思っていました。そうすれば彼もあの世で喜ぶだろうと。しかし真に彼が喜ぶのは、私が再びチェーンソーを片手に木を切る姿を見せることだと思いました。理不尽は存在しますが、それから逃げることとはまた別の問題です。もし仮にククノチ様という存在がいるとしたらこうお伝えください。私は常に、自然を思っていますと」
 金城は老人が渋るだろうと考えた。だが老人は初めて金城の前で笑顔を見せた。
 「それこそククノチ様が求めていた答えだ。真の自然に対する奉仕は死ぬことではない。生きてその天命を全うすることだ。ククノチ様はそういう生き様に感動なさるのだ。従ってククノチ様も、無理にお前を引き止めることはしない」老人は話を終えると、再び池の方を向いた。金城は立ち去ろうとした。狼は半円状の陣形を解き、道を作るようにして律儀に座っていた。しかし一つ気になることがあった。
 「最後に一つ教えてくれますか?私がもし貴方の言う通り、霊魂世界に入りたいと言ったら、それはどうなっていたのですか?」
 「ああ、そんなことかね?そこの霊狼どもに無様に食い殺され、この世から跡形もなく消え去っておったわ」老人は先ほどの渋味あふれる声を忘れさせるような高らかな笑い声を、満点の夜空が煌めく暗黒の森林に響かせた。そして霊狼の遠吠えが、立ち去る金城の心を、ただひたすらに打ち続けた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?