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【参加レポ】マルチスピーシーズ人類学研究会:ケアの共異体を巡って

 こんにちは。ザムザです。

 今回は立教大学で開催されたマルチスピーシーズ人類学研究会に参加して勉強したことをまとめた記事を書きました。

 日時は2019年6月27日。研究会のタイトルは以下。

第29回マルチスピーシーズ人類学研究会「ケアの共異体」 

 ここではまず、軽ぅく、わたしがマルチスピーシーズ研究会に参加した動機を少し書いておきます。

 

 わたしは「対人不安症」と「社会適応障害」という診断を医者から受けたことがあります。

 ようするに他人や社会が苦手だったのですね。わたしは精神分析や精神医学などの本に手を出し、当事者研究などの集いにも参加したりなどしました。

 

 わたしは多くの人がそれぞれに〈生きづらさ〉を抱えていることを知りました。同時に、他人や社会とうまく馴染めない彼らとも馴染めない自分にも気付きます。それは彼らにとっても同様でした。

 自分たちの〈生きづらさ〉が、単純に「マイノリティの共同体」として束ねられるものではないと、多くの人が感じていることを知りました。そこで起こる多くの問題はお互いが違っていること・異なっていることによるものだったのです。その違いや異なりこそ大切にしようと謳っていたのにもかかわらず。

 

 さて、以上のエピソードをわたしのマルチスピーシーズ人類学研究会に参加した動機へと繋げてみましょう。

 

 わたしが興味を持ったのは「ケアの共異体」という研究会のテーマでした。

「共同体」ではなく「共異体」。わたしはまずその言葉を「誰しもが共に異なっているような共同体」と読みました。または「共に異なった体を持っているわたしたち」というふうに。

 かつて対人不安症と社会適応障害と言われたわたしが出会った、マイノリティの共同体の困難を、もしくはマイノリティであるところの自己を考える手がかりになるのではないか。──そう、思ったのです。

 それに「ケア」という言葉にしても、人が生きるうえで誰もが感じないではいられない〈生きづらさ〉への対処・対応を連想することは容易すかったのでした。

 

 もっと言いますと、人類学についても別の筋から関心があったり、その人類学を扱う精神分析の研究者の発表もあるなどの理由もありますが。。。

 

 以上がおおよその参加の動機になります。

 かくして2019年6月27日、台風の接近を受けて傘を手にする人々にまぎれて、池袋の駅を降り、わたしはマルチスピーシーズ人類学研究会の会場たる立教大学へと赴く運びとなったのでした。

※以下、人名への敬称は省略させていただきます。

 以下では、ざっくりと発表者各位の発表を通しで書いてみます。わたしが考えていたことを適宜挿入していきながらの紹介となりますので、議論に多少のノイズがありますことをご了承ください。

於:近藤祉秋「『人間以上のケア』に向けて」

 研究会はまず近藤祉秋による「『人間以上のケア』に向けて」から始まりました。近藤は今回のマルチスピーシーズ人類学研究会の提題者とのことで、彼以降に発表を行う人は彼の取り決めた方針に基づいて各自の発表内容を考えたとのこと。

 近藤の関心は「ケアの共異体」に、そして共異体が共同体とどのような仕方で違っているのかという点にありました。ちなみに「共異体」はhybrid communitiesを訳したものです。

"hybrid communities"の概念は、ドミニク・レステルやチャールズ・ステパノフなどによる使用歴があるとのことですが、当記事ではそうした概念の歴史には触れませんので、悪しからず。

傷ついた惑星をケアするディープエコロジスト……でいいのか?

 近藤は「ケア」という概念に触れ、現在の自然環境の全体=惑星が傷ついているという現在の惑星全体の状況を、ただ癒せ(ケアすれ)ばいいのだろうかと問いかけます。傷ついた惑星をケアする。それではディープエコロジストと同じなのではないか、と。

 ディープエコロジストとは、人間をそれ以外の生物種と同列に位置付けることで、人間が生命種として特権的な位置を占めているのではないと考える立場のことです。その立場からすれば環境破壊や他の生物種に対して支配的な振る舞いをする人間は否定されることになります。

 

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』と異種間の共生のテーマ

 「ディープエコロジスト」と聞いて、わたしはつい先日鑑賞したばかりの映画のことを思い出しました。その映画は『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)です。

 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の中ではモナークという地球規模で活躍する組織が登場します。怪獣の研究および管理を行なっている組織なのですが、映画の中では人類にとって危険なはずの怪獣を殺さずに生かし、そしてどうにか人類のために利用できやしないかといったことを追求しているのです。

 組織名である「monarch」という英語も「王・君主・主権者」といった意味の言葉であり、怪獣たちを(自然環境と同様に)統治しようします。モナークが具体的に何をやっているのかということは公然の秘密となっていて、危険な怪獣に関する情報をろくに明かそうとしない彼らは、人民からも、各国からも、そして国際連合からさえも批判を受けています。

 モナークに対して環境テロリストの存在があります。環境テロリストたちはモナークが管理する怪獣たちを目覚めさせ、主に人間界に対して政治的な意図から破壊活動を行います。

 他方で環境テロリストに拉致されたモナークの研究者は、政治的な意図ではなく、ディープエコロジスト的な立場から環境テロとみなされる怪獣たちの解放を意図して、彼らに協力するのです。怪獣が跋扈する世界こそ地球がみずからを癒す(ケアする)道なのだと考えて。

 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』のストーリーは、人類のために活動するモナークとそれに政治的な意図から反発する環境テロリスト、そして全自然の保護に取り憑かれたディープエコロジストの三すくみで展開することになります。そして作品のテーマは「共生」なのです。

 ようするに人間界に属する者たちと自然界に属する怪獣とがいて、人間の側が自然に対して主従関係を構えようとすると結局うまく行かない。──といったテーマを描いているのです。その上で『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は異種間および多種間の共生の可能性について描いたものだと見ることができます。

 

異なりを含んでいる種の集いが共異体(ただし個別の種や個体の有限性は要配慮)

 近藤は『Lexicon 現代人類学』の中の「ケア」の項目を引きます。そこで紹介されている医療人類学者の浮ヶ谷幸代の説によれば、ケアの行いは次のように説明ができるというのです。

 ケアとは、苦悩する他者へとまなざしを向けて、救いの手を差し伸べる行為であるばかりではなく、ケアする側がケアされようとしている苦悩する他者との関係性に巻き込まれていき、みずからもまた苦悩することなのだ。

 上のケアの定義を真に受けるとすれば、エコロジストになることは良いにしても、あまりにディープなエコロジー思想に与することで自然界における人類の(妥当な)位置さえも危うくなってしまいます。自然が有限であるように、人類もまた有限なのです。

 近藤が、ディープエコロジストっぽさがあるという点で「ケア」という言葉と距離を取ろうとすることも、人類の、というより種としての有限性を配慮しようとする観点からなのでしょう。ここで「共生」の視点が浮かびます。

 共生とは「共に生きること」です。共に生きる同種の集まりは共同体のことですね。しかし近藤の発表は「『人間以上のケア』に向けて」という題が語っているように「人間以上のケア」を指向します。人間以上。それは人間種だけではなく、種としての異なりを含み込んで(混んで?)いるような種の集いが意識されているのです。さしあたってはそれこそが「共異体」の輪郭だと受け止めることができます。

 

キーワード

  • 共異体:人類とは異なる種を含んだ多−異種的な共同体の集い

  • ケア:苦悩する他者へと手を差し伸べることで苦悩に巻き込まれていくこと

  • 共生:他なる多くの種と共に生きること

  • 有限:それぞれの種の活動リソースには限りがある

 

於:山田祥子「見えない川を語り演じる」

 山田祥子は東京にある桃園川と人間との関わり合いに関する発表をしました。

 桃園川は東京の杉並区から中野区にかけて流れる川です。1961年に都市計画のために下水用とされ、1965年には暗渠化がなされます。

 以上の桃園川の展開を、人類学的な関心からまなざすことが山田の関心でした。

 そして今回の研究会のテーマの線から言えば、人間と川との共生に関するものだと言えます。人間の川へのケアを通して見えてくる人間と川との共異体的なあり方を検討する。それが山田の発表が置かれたコンテクストでした。

人新世・人間中心主義・傷ついたランドスケープ

 キーワードとして挙げられるのは「人新世」です。人新世とはある種の地質年代の名称で、人間の意識的・無意識的な活動の結果として影響および痕跡を与えることになった自然環境の全体を指す地質的な年代のことを表す言葉です。

 人類の時代としての人新世には二つの視点があり、一つは人間中心主義で、もう一つは傷ついたランドスケープ(風景)です。

 人間中心主義とは言葉の通り人間を中心に置いて物事を考える立場のことを指します。先に挙げた『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の映画から言えば、怪獣を人類のために利用しようと企てた「モナーク」のことです。

 傷ついたランドスケープは「傷ついた惑星」と同様に、人間が中心となった種々の活動によって加工され変形された風景のことです。それは人間の暮らしの事情から名付けられ、工事され、地下に沈められることになった桃園川という川の歴史そのもののことだと考えていいでしょう。

 

桃園川=異種間をつなぐインターフェース

 山田の発表は、人新世時代の人と自然の関わり合いを、桃園川と周辺住民の取り組みを通して考えるというものでした。

 桃園川にはカッパの伝説がありました。その伝説は人が川と付き合っていく物語で、一方には人間が暮らすがあり、他方にはカッパの暮らす世界がある。二つの世界をつなぐものこそが川なのであって、ようするに川は異質な世界に棲まうもの(異種)同士が出会う境界、つまりはインターフェースなのでした。

 先に述べたように、現在の桃園川は暗渠化されていて、人々の生活のランドスケープの中から不可視化されています。しかし2017年から失われたランドスケープである桃園川への鎮魂およびケアの企画が立ち上がったのです。(この経緯についてはここでは触れません。)

 桃園川の鎮魂・ケアは市民劇の方途が取られることになりました。市民劇の内容は伝説の存在であるカッパによる創世神話でした。そこに人間の生活が入ってきて、河川の汚染を招き、カッパによる逆襲が始まる。そのときに人間はどうするのか。――これがおおよそのあらすじです。

 

人新世的なクロノトープを語ることで異種と共生している時空間に気づく

 山田は人新世以降の人間活動として市民劇の活動を理解するために、「クロノトープ(時空間)」の概念を参照します。

 クロノトープと書くとつかみにくいですが、「時空間」ならイメージできるのではないでしょうか。クロノトープはミハイル・バフチンの言葉で、出来事や物語の展開パターンが、ある具体的な時間と空間によって規定されている状況を指すものです。人新世という状況が人類と自然との密接な関わり合いによって堆積していったことを思えば、クロノトープという時空間のつかみ方も納得できます。

 山田が市民劇の取り組みを検討するためにクロノトープを引くのは、人新世的な状況を寓意的に語り直すことで、人新世的な時空間に対して批判的に捉えることができるのではないかと指摘するためでした。生活環境に埋もれた、自明であるがゆえに不可視なもの。それが実は、自然とのつながりを保証するインターフェースとしての機能を持っている。自明性と意外性とを接続するインターフェースが見えるような時空間を再設定するための活動として、市民劇を位置づけることができるのではないか。──そのような形で以て。

 異質な存在(異種)であるカッパからの、人間に対する抗議を受けた後の人間の活動を演じることで、演者も鑑賞者も、環境の中での人間の位置に距離を取った視点をつかむことができる。そして自分たちが現にどのような異種と共生しているのかということに思いを馳せることができる。──そういった人新世的な時空間から(仮言的にも)目を離して他種の生活に気づき、改めて自分たちの時空間をつかみ直すことができるのですね。

 キーワード

  • 人新世:人間の活動が刻まれた自然環境の全体を表す地質年代の名称

  • インターフェース:別々のもの同士をつなぐ媒介項

  • クロノトープ:出来事や物語の生成パターンを規定する時空間的な状況


於:合原織部「サルとともに暮らす」

 合原織部の発表は「エンガイ」に瀕した村のフィールドワークの調査結果に関するものでした。宮崎県は椎葉村という土地が舞台です。

 わたしは当初「塩害」のことだと思って聴いていたのですが、どうやら困っているのはしょっぱい成分にではなくておサルさんである様子。そうです、エンガイは「猿害」だったのです。

 となると「ケアの共異体」のコンテクストから言えば、話は人とサルの関係にあります。人とサルとの共生であり、その関係の中に生じてくるであろうケアの必要性であり、そして異種間同士での折り合いの付け方が問われる共異体。──そうした点から楽しめる発表と見ていいでしょう。

人間も苦悩するようにサルもまた苦悩するケアすべき主体である

 椎葉村は10年程まえからサルの被害に悩まされてきました。村の作物は元からいたイノシシの被害と共にサルの手によって多大なダメージを負わされてきたのでした。そうした地に人類学者が降り立ったのには理由があります。すなわち人とサルという、異種間の関係の結ぼれを調査することです。

 むろん合原個人の目的はそればかりではないでしょう。とはいえ人類がいて、そしてそれ以外の種もまたその周辺にいる。この多種の集い絡まり合う状況において、どのような関わり方が生成するのか、という点は彼女の関心の射程に捉えられたはずです。

 合原はまず「サファリングとケア」に言及します。サファリングは「苦悩」のことです。そして合原はサファリング抜きのケアはないと言い、従来のケアの視点は人間が経験するケアに限られていたのだと続けます。これは近藤祉秋が言及したことを思い出させます。

 近藤は「ケア」という言葉を、苦悩する者に手を差し伸べることによって救おうとしたこちらの方も苦悩するようになる、というニュアンスでつかみました。苦悩とはサファリングですから、合原の「サファリング抜きのケアはない」という言い方と重ねられます。

 合原が椎葉村の猿害に寄せて「サファリング抜きのケアはない」と語るとき、苦悩しているのは人間ばかりではないという視点が取り出されています。つまりサルもまたサファリングする(苦悩する)ことの主体なのである──という視点が。

 ようするに、人間がケアされるべくあるように、サルもまたケアされるに値する、ケアされるべき主体でもあるという視点が取り上げられているのです。

 

椎葉村の住民とサルとの共生関係は恨みと畏れが同伴している

 椎葉村の住民はサルたちによる被害に対策を取っていない訳ではありません。罠を仕掛けるなどの対策は取っています。しかし彼らはサルに対していまいち本気で敵対することができないでいます。理由は、椎葉村に伝わる伝承のせいでした。

 椎葉村に伝わる伝承の詳細は省きますが、ようするに「サルは神の遣いで神聖な動物である」というイメージを培養する物語のことです。下手に危害を加えると「サルの祟り」がある、そうした信仰を椎葉村の住民たちは共有しているのでした。

 ですからサルを捕まえる罠を仕掛けてサルが掛かっても手ずから殺す決断ができず、放置してサルが餓死するのを待ったり、あるいは専用の捕獲のための囲いを設置してサルの集団を捕らえてみたはいいけれど、その直後に設置した家の者が体調を崩してしまい、祟りにビビって囲いからサルを逃したり──なんてこともあるのだとか。

 サルの方でも頭が回り、弱そうな人間に対してちょっかいを出すとのことで、さらには下手に石でも投げつけようとものなら、自分に危害を加えた人間を覚えていて、あとあと意趣返しをしてくるのだとか。実際にあった事例では屋根の瓦をすべて庭に落とされてしまった家もあるとのことです。

 合原が繰り返すのは、椎葉村の人々が「サルは地域に住んでいる」と話している、という点でした。サルは住民にとっては否応無しに自分たちと共生を強いられている異種なのですね。住民たちはサルをたしかに恨んでいます。にも拘らず、彼らは伝承を拠り所にしてサルを畏れの対象としても見ているのです。

 

共生の実感としての「サルは地域に住んでいる」

 合原の発表の調子は人間だけに肩入れするのではなく、サルの方にも同情の余地があるという点が強調されていました。であるからこそ、幾度も「サルは地域に住んでいる」という椎葉村の猿害当事者の証言をリフレインさせます。

 猿害はおよそ10年前から始まりました。はっきりとした理由はわかりませんが、そこに何らかの人間の活動の影響があってもおかしくはないということが示唆されていました。すなわち猿害もまた人類の自然に対する働きかけの結果もたらされた状況でありうる。──そんな人新世的な状況の露呈である、というふうに。

 苦悩しているのは人間ばかりではない。サルもまた苦しんでいる。サファリングしている。苦しんでいる者がいるからケアがある。しかしケアにはサファリングがある。苦悩する者のサファリングがあり、そしてそれをケアしようとする者のサファリングもまたある。

 椎葉村の住民はサルたちとの共生を実感しています。その実感は彼らが共有している伝承によって立ち上がっているものかもしれません。そのとき伝承は椎葉村で暮らすうえでの人間と自然との間をつなぐインターフェースになっているのです。

 山田祥子の発表を思い出せば、カッパは桃園川というインターフェースから人間と繋がっていました。椎葉村の場合ではサルが伝承というインターフェースによって人間の生活と同じ地平に繋ぎとめられることになっているのですね。

 以上の異種としてのサルとの「ともに暮らす」感覚──共生感覚は「人間以上のケア」を検討するうえで含蓄のある臨床的な事例です。いわば「共異体-内-存在」としての自覚を前提にしたケアのあり方、あるいはヴァルネラブル(可傷的)な経験主体としての各種の共生戦略の擦り合わせの方向。それらは異なる種と共に暮らすうえで必要な「痛み分け」の視点を開くものでしょうから。

キーワード

  • サファリング:苦悩のこと。ケアの前提となる状況でもあり、ケアをしている際の状態でもある。

  • 痛み分け:棲み分けをして共同体を作ることと対比的に捉えられる概念。共異体では異なる者を隔離したりせず、それらと共にあらねばならず、その必然として互いの傷つきやすさを擦り合わせる調整作業がいる。その点で生じてくるのが痛み分けのフェイズである。

 

於:濱野千尋「動物性愛者のセクシュアリティと相互的関係」

 濱野千尋の発表は動物と人間とのセクシュアルな関係を問うものでした。ドイツの動物性愛者団体である「ZETA(Zoophiles Engagement für Toleranz und Aufklärung/寛容と啓発を促す動物性愛者団体)」の周辺の人間と動物のセックスを含めた種間関係の考察がテーマです。

 濱野が取り上げるのは主に人間とイヌとの関係です。もっともオーソドックスなペットとしてネコと共に名前が上がるであろうイヌとの、人間の関わり合いがメインの発表でした。

 山田祥子が地域に沈潜する川との、合原織部がサルとの共生の関係を、「ケアの共異体」を検討するための叩き台として提出した後に、濱野千尋はドメスティックな空間で生活を共にするペットとの関係を提出したのです。

動物性愛者は動物を性愛のパートナーとして受け入れる

 セクシュアリティとは性に関連する人それぞれの生き方や意識、行動や指向などを含んだ概念です。そして性愛となれば性的嗜好のことであり、濱野が取り上げる動物性愛者のことで言えば動物との性的関係を含んだ愛情関係のこととなります。

 動物と性的な関係をとり結ぶと聞くと「変態だ!」と思う人もいるかもしれませんが、諦めてください、これもひとつの立派な関係のあり方なのです。むしろ懸念されるのはそうした人間と動物との間でなされる性行為が虐待ではないのか、といった動物愛護の観点でしょう。

 現にドイツの動物性愛者たちの当事者にあっても共有されているのが「虐待なのか、否か」という観点なのです。彼らは自分たちを「zoophilia」だと名乗り、「bestiality」と区別します。前者は人間が恋人同士の間で行うように愛着的な感情で以て接し、それがときに性行為へと結びつくようなものです。他方で後者の「bestiality」は日本語で言うところの「獣姦」のことです。ニュアンスとしては「ケダモノ野郎」といった語感なのだとのこと。

 「zoophile」すなわち動物性愛者は特定の動物をパートナーとし、ときには「妻」や「夫」と呼びます。愛着や性の対象となる動物種はイヌが圧倒的に多く、次点が馬。ほとんどの場合は自分が飼育する動物がパートナーとなります。

 他にはパートナーは経済的・心理的な理由から一頭であることがほとんどで、動物性愛者の多くは思春期までに自身の動物への性的な指向を自覚する傾向にあります。また彼らは必ずしも動物との性行為を必要としている訳ではありません。彼らにも同性愛や両性愛などの性的な差異があるのです。

 

動物性愛者たちの葛藤:動物とのセックスはレイプでしかない?

 動物性愛者たちの動物との性行為は大抵、呼びかけをしてくるのは動物の方からとなります。そしてほとんどが動物とのセックスにおいては受け身の立場を取ります。濱野によれば、動物性愛者は体感的に動物の欲情がわかるのだとのこと。それを察するからこそ彼らは、パートナーとして、動物が性的満足を享受するための介助を行うという訳です。

 動物性愛者が受け身の立場でセックスを行うと言いましたが、そうでない場合もあります。つまりパートナーである動物に能動的に性行為を迫る動物性愛者が。多くの場合はペニスを持つ者──男性ですが、彼らは多くの場合、その性的関係の内実を明かしません。なぜなら彼らは動物愛護の立場にある人々からは常に敵視されているからです。

 たとえば動物性愛反対論者は「動物とのセックスはどんな場合においても動物虐待として考えられるべきである」と主張しています。そこに意思の疎通を保証する客観的な証拠がなく、それゆえに動物とのセックスはつねにレイプと同義である、という道理なのです。

 動物とのセックスに能動的な立場に立ってしまう動物性愛者がやましさを覚えてしまうのは以上の点にあります。ペニスを持つ動物性愛者がセックスにおいて能動的な立場に立つということは、彼らが挿入を試みることを暗に物語っています。そうした挿入の行いは彼らへの反対論者たちの非難であったり、同じ動物性愛者たちが指弾する獣姦に当てはまってしまう疑惑があったりなどに、当人の意に反して抵触することになってしまうのです。

 多くの場合、動物とのセックスで能動的な立場に立ってしまう動物性愛者の性的指向は「ストレート」です。すなわち男性の心身を持ち、女性の心身に対して欲情を催す類いの人種。彼らはセックスに自身のペニスを挿入することが必要だと考える傾向があります。そして、その必要性が彼らに能動的な立場を取らせ、彼らに自分が虐待者と呼ばれることの後ろめたさをもたらすのです。

 

セックスは人間が動物に接するときのひとつのアイデアである

 濱野はある動物性愛者から次のように言われたといいます。

 「ズー(動物性愛者)だからセックスしなきゃいけない理由は何?

 ここまで動物性愛者と動物のセクシュアリティに関して見てきましたが、それ以外の人々の動物への接し方はどうなのでしょう。たとえばわたしたちは家庭に迎える際にイヌやネコを去勢することに悶えるほどの罪悪感を覚えることはありません。

 あるいは濱野はダナ・ハラウェイという、「伴侶種」の概念を設計した思想家を引いています。ハラウェイは愛犬との親密な関係からペットであるイヌをただの犬種ではなく、人間の生と共にあり人間によってその生を成り立たせている異種──伴侶種として発見してみせるのです。ところが愛犬家であるハラウェイにおいてさえ、動物に対するセクシュアリティへの配慮という視点はなく、彼女の愛犬は去勢されているのです。

 しかし濱野が聴取する動物性愛者たちの事例では、セックスは動物の生をまるごと(whole life)受け止めることのうちに含まれる、という視点を見つけることができます。生命を肯定することはその生命をつなごうとする意志の現れである性さえも肯定することである。だとすればそうした配慮(ケア)は、むしろ動物愛護の精神に一致するものだと言えるでしょう。

 たとえば、ある男性動物性愛者はおおよそこのような思考をつなぎます。自身の男性の身体性からオス犬の性的欲求を理解することができ、オス犬が欲求不満でストレスを感じていると解釈し、「かわいそう」「どうにかしてあげたい」と考え、射精介助をする、そのように。

 また別の動物性愛者の場合はもともとアンチ動物性愛者でしたが、「ズー(動物性愛者)になろう」という決意を経てからは動物性愛者になったのです。その背景には、パートナーである動物の生をまるごと受け止めるためには、性の側面を無視する訳にはいかないという気づきがあります。つまり動物にもまた人間同様に、生全体の一部としての性的側面──セクシュアリティがあることに気づいたのです。

 以上の話を踏まえて、濱野は動物性愛者のセックスを「人間が動物に接するときのひとつのアイデアなのではないか」と考察するのでした。

キーワード

  • 生をまるごと:生命存在の種々の性質を包括したもので、その内訳にはセクシュアリティも含まれる。また配慮によって分節されることもあれば支えられもする。


於:工藤顕太「模倣の性愛――ユカギールと精神分析――」

 工藤顕太の発表は現代人類学の重要文献のひとつと名高い、レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』(2007)を精神分析の観点から批判的に検討するものでした。工藤は精神分析、ラカン派精神分析の研究者なのです。

 じつを言えば、わたしが当初、今回のマルチスピーシーズ人類学研究会に惹かれたのは事前に「人類学×精神分析」というテーマがあると告知されていたのを目にしたからでした。

 ケアの共異体を問う研究会の中で、ウィラースレフとラカンの知見が交差するのは、主体と他者とをつなぐ性愛的(セクシュアル)な関わり合いにおいてとなります。

 合原織部が人間種と他種とが共生するうえでの競合という困難があり、濱野千尋が人間と動物とのドメスティックな交流・交合のあり方を示した後で、工藤は種を超えた性愛的な誘惑関係のプロセスに入っていける異種間に通じた「能力」に言及するのです。それはまた、ケアすべき他者の苦悩に巻き込まれていくプロセスへと入っていく能力のことでもあるのかもしれません。

ユカギールのアニミズム的な経験世界は「鏡の回廊」である

 レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』は、シベリアの狩猟民であるユカギールの経験世界のテクスチャー(網目・手触り・質感)を検討した一冊です。おもなテーマとしてはユカギールの生態から、自然界のものには全て魂があるという「アニミズム」の世界認識をアップデートしようという意図もある、そんな野心的な本なのです。

 精神分析に関心のある工藤が本書を批判的に検討しようと動機付けられたのは、ウィラースレフ自身が著書の中で、フロイトやラカンといった精神分析家を取り上げている点に依っていると言っていいでしょう。また、それ以上にウィラースレフが精神分析家を参照せざるを得なかった、ユカギールの経験世界の実質である「鏡の回廊」という現実の現れ方が挙げられます。

 ウィラースレフが見たユカギールは、まず以て性愛のエージェント(行為者・媒介者)としてでした。とりわけウィラースレフが注目するのは彼らの狩猟の場面です。狩猟においてユカギールのハンターは人間以外の種へと自己を拡張させます。それを準備するのが模倣の技法であり、その技法を通して獲物を誘惑するのです。

 模倣関係を通して獲物を口説き落とすテクニックの内訳は、精神分析における「鏡像」の関係を連想させます。鏡像関係は、ざっくり言うと、自我そのものが鏡のように他者を反映し、他者もまた自我の反映となっているような関係のことです。ユカギールの狩猟では獲物にとっての鏡になることが模倣になり、それによって獲物の鏡像になることで達成されるのです。

 ウィラースレフが「鏡の回廊」と呼ぶのも、そうした鏡像的な対象関係を自明なものとしているユカギールのアニミズム的な生態を指しているのです。

 

ユカギールのハンターは動物のソウルを誘惑する

 ユカギールが「鏡の回廊」を生きている。そのことはいいでしょう。では、ハンターに誘惑される獲物の方はどのようなエージェントとして認識されているのでしょうか。それを考えるためにユカギールの世界観を押さえます。

 ユカギールの世界観には、生者と死者の二つの世界があります。死者の世界は精霊(以降は「ソウル」)の世界であり、生者のアイデンティティを保証しもします。つまり一個の人格は生者と死者、双方の世界に一度に属す鏡写しのような二つの次元の合一体(=二元合一体:水樹和佳子)なのです。

 また、ユカギールでは人間がそうであるように動物もまた人格を持っていると考えられています。ハンターが狩猟の際に動物を誘惑するのも、そうした「人格的な次元」を相手にしているのです。人格は死者の世界の精霊であって、つまりはソウルなのです。

 ウィラースレフの著書のタイトルが「ソウル・ハンター」となっているのもこれで明らかになりました。すなわちユカギールのハンターが獲物を殺害するよりも前に、動物のソウルを誘惑する者として把握されているのです。

 ところでユカギールが動物にソウルを認めるのにも資格があります。さもなければ動物への誘惑者たるソウル・ハンターの名称にも実質が伴いません。ウィラースレフの考えでは、そうした資格は動物たちの備えている能力によって保証されています。

 誘惑される動物たちの能力とは「欲望する主体である」という能力です。ハンターと動物との関係に精神分析の補助線を引くウィラースレフは、欲望を、他者のうちに自らの理想像をイメージする原動力であると理解します。そして、そうである以上そうした動物たちには、人間がそうであるように、ナルシシズム的な自己愛・自体愛が認められるのです。

 

ユカギールの経験世界では実践のうちに別次元同士が同時に立ち現れる

 動物のソウルを誘惑するハンターですが、完全に動物の欲望の対象に同一化してしまうのではありません。ハンターはハンターとしてのアイデンティティを保ち続けなければならないのです。さもないと自らのソウルが動物のソウルに魅入られてしまい、死者の国へと連れ去られてしまうからです。

 動物を誘惑するハンターは、さながらナンパ師のようです。相手に惚れて、恋しているかのように近づきつつも恋人だというわけでもない。ナンパ師はあくまでも誘惑者なのであり、恋人ではない。つまり恋人でもなく、恋人でなくもない。そんな曖昧な立場にいるのです。そしてもしもナンパした相手に惚れて(落とされて)しまったなら、ナンパ師としては死を意味することになるのです。

 ナンパ師のあり方に触れた後ではユカギールのハンターのあり方がわかりよくなるのではないでしょうか。ハンターは模倣者であり、誘惑者であり、そして殺意を抱いた狩猟者です。動物の欲望の対象として見せかけの同一化をしてみせこそすれど、あくまでも獲物とは非対称的な関係を保ちつつ、自らの殺意に準じなくてはなりません。決して動物への愛に殉じてはいけない、そんなゲームをするのです。

 ようするに、同じであることと似ていることとを混同しないでいること──このモラルを、ソウル・ハンターたる者、守らなければならないのです。

 以上のことを踏まえて、ユカギールの経験世界をもう一度確認して見ます。

 ユカギールが生きる世界では、自己と他者、生者と死者、そして人間と動物の世界がそうであるように二つの次元が前提になっています。おもしろいのは二つの次元の間にあるはずの境界が簡単に行き来のできる、踏み越え可能なものになっている点です。たとえば生者と死者と言うと「今生の別れ」とも言うほどに別な存在ですが、ユカギールの経験世界ではひとつの実践のうちに別物であるはずの次元が同時に立ち現れます。そうしたブレのある現実感覚を支えているのがソウルの世界なのです。

キーワード

  • 欲望:他者のうちに自らの理想像をイメージする能力

  • アニミズム:互いに異なった時間軸にあるものが、ある実践の下、ある場において、それらが別物であるままに、異なる時間が同時に立ち現れることを認める世界像。

 

総括:ケアの共異体──あるいは変容する諸自己の痛み分け

 共異体。すなわち、異種と人間の共生が実現した「ハイブリッド・コミュニティ」。──そうした前提を踏まえれば、共同体はあくまでも同種で構成されるコミュニティとして理解できるでしょう。しかし今回のマルチスピーシーズ人類学研究会では、なんと言っても異種と人間のハイブリッドなコミュニティ、そのような共異体の可能性について検討するものだったのでした。

 以下では、ここまでの五人の発表をさらっとおさらいしてみることにします。それから、わたしがつかんだ「ケアの共異体」について書きしるしてみます。

五人の発表まとめ

 近藤祉秋の発表では、果たして単純に「ケア」でいいのだろうかという点が問われました。ケアという行いには苦悩する者に手を差し伸べることであると共に、他者の苦悩に巻き込まれることでもあります。異種との共生に応じるということは否応無しに、異種の苦悩への配慮が伴うことになる、というわけですね。

 山田祥子の発表では、地域に伏流する人間が暗渠化した川が、人間と異種との関係をつなぐインターフェースになる可能性を指摘しました。そうした自然との/へのインターフェースを見直すことによって自分たちが生活している時空間の意味を賦活することで、自分たちと共生しているものへの感性を活性化することができるといった活動を紹介したのでした。

 合原織部の発表では、農村の猿害を紹介しつつ、ただ人間の苦悩にばかり目をやるのではなくサルの苦悩の方にも思いを馳せます。その農村ではサルへの畏れの感情を培う伝承がありました。その伝承がネックとなり猿害対策が取れずにいるのです。しかしそうした伝承はサルとの共生感覚の根拠にもなっています。この点から、共異体のあり方には「痛み分け」の視点が組み込まれることに気づきます。

 濱野千尋の発表では、より親密な関係な異種との関係に注目します。すなわち性愛です。動物たちの性愛を認知する動物性愛者の証言から、動物とのドメスティックな関係の中で「生をまるごと」肯定するための配慮の消息をうかがうのです。むろん、そうした配慮は異種の生態へと巻き込まれていくことであり、互いに何かしらの痛み分けがあることが前提になっています。

 工藤顕太の発表では、シベリアの狩猟民であるユカギールの経験世界に迫ったウィラースレフの議論を検討しました。ユカギールでのハンターと動物との関係が性愛的である点が強調されます。ハンターは動物のソウルを誘惑します。そして動物の本性であるソウルはハンターに(口説き)落とされる。こうした性愛的な誘惑関係の肝になっているのが「欲望を模倣する能力」なのでした。種差の壁は、ある種の実践を通して乗り越えていけるものなのだ──そんな共生への希望を思わせてくれます。

 

共異体とは「棲み分け」ではなく「痛み分け」である

 「ケアの共異体」をテーマにしたマルチスピーシーズ人類学研究会に出席して、わたしは共同体と共異体の違いを次のように考えるようになりました。

 まず、ケアとは何か。発表者たちはその言葉を「癒す」「お世話」「支え」などという意味合いで用いていました。わたし自身も「配慮」や「気配り」などというケアの意味合いを思ったりなどしていましたが、同時にケア実践の態度によって、共同体へか、それとも共異体へかに分岐することになるのではないだろうかとも考えさせられたのでした。

 ようするに、一言に「配慮する」と言っても、異種に対する二つの処置があるからです。一方は「棲み分け」で、他方は「痛み分け」。

 棲み分けは言ってしまえばカースト毎の分断です。種ごとの話で言うなら、それぞれの生態ごとでよろしくやっていればいいのだというふうに、同種だけで寄り合い、異種は異種どうしで集まって暮らしていればいいというわけです。これが「共同体」のあり方になります。

 他方で「痛み分け」は種ごとの違いに目配せをしつつ、それぞれの種の有限性に根差した事情を持ち合わせて妥当な線を探ることになります。そこにはある種の事情に融通した一方的な談話はありえず、どの種にとっても「うまくやっていくこと」が目指されるのです。さながら自らの症状と折り合いをつけるように。これが同種だけに閉じない異種への/との配慮です。これが共異体のあり方です。

 ──ひとまずは、以上のようにまとめたいと思います。

 

人間以上のケアとは諸自己の変容のプロセスへの配慮である

 どの種にも欲望があることを前提にしなければなりません。どの種も、そしてどの個体にも欲望を持つ自己があることを。ただしそれらは単独で自己を持ち得ているのではなく、環境との連続性において実現されているのです。注意すべきは環境との連続性の中には非連続的であるかのような自己も実現されていて、そうした自己は有限的で、可傷的でもあります。

 どの種にも、どの個体にも、ある自己愛という名の結界があります。とはいえ諸自己の絡まり合いの中にあっては、自己は変容をこうむることになります。さながら「ケアすること」が苦悩する者の苦悩に巻き込まれていくことでもあるように。そうした中で自己が「異種の間で変容すること」を拒んでしまうとなれば共異体は実現しません。そんなことをしようものなら、自己を変容せしめるかもしれない異分子に怯える暮らしをすることになるでしょう。言い換えれば、(多分に戯画的なまとめ方ではありますが)そうした危険性を孕むことになるのが共同体のあり方なのです。

 以上を踏まえれば、共異体という観点から見えてくることは、ケアが異種への配慮を通した痛み分けをするプロセスへと入っていくことなのだと理解できます。

 また、今回の研究会の主催である近藤の「人間以上のケア」をわたしが理解したところで記すと、次のようになるでしょう。

「人間以上」とは、人間であることではなく人間になること、そのような次元のプロセスへの配慮を異種にも広げていくことなのです。配慮すべき自己は異種間にある関係である、とも言えるでしょう。このとき、自己が絡まり合う場はひとつです。そうした場に多くの関係がひしめくことになります。このひしめきがケアの対象になるのですね。

 「〜になる」というプロセスは人間だけでなく、動物にも非生物にもあります。そこには絶えずひとつの空間内における多–時間軸の成立があるのです。ひとつひとつの時間軸は別々のものですが、ある種の実践によってそれらが同時に同じ場で成立していることに気付けるのです。これがアニミズムの感覚であり、どの異種らとであるにしても、彼らとの共生を立ち上げる土台となる感性なのです。


研究会の後で:ケアの過程へ ~ぼんやりとした自己のために

 最後に、第29回マルチスピーシーズ人類学研究会に参加するわたしの念頭にあった関心が、参加後にどのような理解を得たのかを記しておきます。

 その関心というのは、〈生きづらさ〉や「マイノリティの共同体」のあり方に適用できるケアの概念を、どのような仕方にアップデートできるのかという点です。

 以下、わたしなりに受け取ったところを事前の関心と擦り合わせたものです。

〈生きづらさ〉を抱えるマイノリティに目配せを

 わたしたちは誰もが程度の差こそあれ、〈生きづらさ〉を感じます。

 その点では誰もがマイノリティです。

 さて、誰かをケアすることが他人の〈生きづらさ〉に巻き込まれることになるなら、誰かにケアされることは誰かを自分の〈生きづらさ〉に巻き込んでしまうことでもあるように思います。

 しかし、そのことから他者をケアすることためらい、誰もが自分自身である生きづらさだけなのであれば、それ以外の他人もまた生きづらいままです。翻って、自分自身も生きづらいままでい続けることになります。つまり変わりようがないのです。

 この点に、ケアの行いの重要性があります。

 人が誰かをケアするとき、相手の〈生きづらさ〉を深追いすることになり、または、自分の〈生きづらさ〉から目移りしている状態に陥ることがあります。深追いも目移りもほどほどにしなくてはいけません。なぜなら自分自身もまたケアが必要な〈生きづらさ〉があるのですから。それゆえに必要なのは、他人の〈生きづらさ〉にも自分の〈生きづらさ〉にも目配せをすることです。

 

〈生きづらさ〉はケアの行いを介して変性する

 誰もが異なった〈生きづらさ〉を抱えています。そうした異なりが「自己」というものです。諸々の自己には異なった来歴、欲望、情念があり、それらを大雑把に「自己一般」として表面的な相で束ねてしまえば排除と迫害に繋がることになります。

 ただし、そうした〈生きづらさ〉はある特定の場を共有した連続体でもあります。特定の場においてそれぞれの自己がそれぞれの〈生きづらさ〉に直面するのです。

 そのように考えると、ケアすることを介して他者の〈生きづらさ〉へと関与し、それに巻き込まれてしまうことは「ひとつの希望」であるようにも思えてきます。

 なぜなら、別の〈生きづらさ〉に気づき、それに巻き込まれることで、自分の〈生きづらさ〉との別な付き合い方にも気づくことができる可能性があるからです。いや、気づくというよりも、変性と言った方がいいでしょう。ようするに他者の〈生きづらさ〉に巻き込まれることで、自分自身が直面している〈生きづらさ〉の意味合いが変わってしまうというわけです。

 

〈生きづらさ〉の変性はぼんやりとなされる

 自身とは異なるあり方に自己が能動的に巻き込まれることによって、潜在的な感性の回路が開発される。このことは、ケアが他者の〈生きづらさ〉に巻き込まれることと関連します。というのも、ケア=配慮を通して、他人事である〈生きづらさ〉が潜在的に自分事とも繋がっていることに気づけるからです。

 他者の〈生きづらさ〉が、ケアを介さず単に他人事でしかなかったとしたら、憐れみや憐憫、はたまた同情こそすれども、それはあくまでも自分の可能性とは別個のものとして認識されるでしょう。しかし他者の〈生きづらさ〉すなわち「他己」に巻き込まれ、変性をこうむれば、その変性の一事を取って自己の〈生きづらさ〉が自己一般の潜在的な次元に関わるものだと感得できます。

 ようするに、ケアの行いを介することによって、自分の可能性とは別個のものではないものとして、他者の〈生きづらさ〉を包摂することができるのです。そして他己に巻き込まれ、その〈生きづらさ〉を包摂するとき、自己はつねにすでに変性していることになります。

 以上のような自己の変性劇は、諸自己の間での重心を個々の主体からそれぞれの自己の過程(=ホメオスタシス:恒常性、あるいはハビトゥス:習性)へと移動させています。この変性劇における肝心な点は、諸自己が「等しくなく、等しくなくもない」でいる、ぼんやりと(misty)したあり方に注目していることです。言い換えれば、はっきり(clear)していると不都合な現実があり、むしろそうしたぼんやりとした現実の中にこそ各主体を成り立たせている秘密があるのではないのか、といった視界がうかがえるのです。

 おそらく、わたしたちは、たとえマイノリティの共同体に与することになるにしても、単純に「マイノリティである」という認識であってはいけないのだと思います。なぜならそれはマジョリティの側がマイノリティに対して行うのと同じ分断になってしまうでしょうから。そうではなくて、「マイノリティでなくもない」自分であることこそ、マイノリティになる可能性を生きるわたしたちの〈生きづらさ〉を変性させうる潜在性へと配慮したあり方になるのです。主体から過程へ、〈はっきり〉から〈ぼんやり〉へというのは、そのような気づきを言語化したものとなるでしょう。

 _了

本記事で言及のあった資料

奥野克己・石倉敏明編『Lexicon 現代人類学』,以文社,2018
ダナ・ハラウェイ『伴侶種宣言』永野文香訳,以文社,2013
レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』奥野克己[ほか]訳,亜紀書房,2018
 


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