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人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは意志であり、それを捨て去ることによって真に本来の欲望そのものの状態で生きられる

 小説を読んでるとさ、考えてみたくさせられるときってあるじゃん?ない?いやいや、あるんだよね。これって考えてみたらどういう風景が見えてくるだろう〜とか、どこに連れて行かれるんだろう〜とかさ。あるんだよね。そういうあれが。

 ワイが今回躓いたのが(おい)百年文庫の「90 怪」の先頭に入ってる五味康祐の『喪神』って小説。そんな長くなくて、36ページくらいかな。時代小説でさ。妖剣と言われてる「夢想剣」にまつわる話なんだ。この夢想流の修業が克己やら勇気やら、努力やらといった「意志の力」を否定するのよ。

 意志的なものはダメだぜ、ってさ。じゃあ何がえーんじゃいってなるときに夢想剣は「本能」を持ってくるの。この線を引き受ける形でワイは〈意志-本能〉の図式をうねうねと考えたのが下の記事なんだってばさ。

 当初は3000字とかになるつもりだったんだけどねぇ。結果として16000字オーバーになっちったりして。ワイが思い浮かべるアイデアって、どーも手短には済ませてくれないんだな、これが。書いているときにやっぱりある程度納得したいってのがあるからさ、そこを追いつめてくとね、どーしても。

 そんな記事だけど、いつものように要約を書いてあるから、それを載せますわい。

・小説家・五味康祐の処女作である『喪神』は時代小説であり、剣豪小説である。そこで登場する妖剣・夢想剣の奥義では、克己や勇気、努力などの「意志的なもの」の幻想を捨てて、本能から起こる真の欲望へと向かうことをよしとする。それは無我や無心の域であり、まさに「魂が抜けたような、ぼんやりとした」喪神状態になることなのだった。
・なぜ意志がマズいのか。それは意志が人を欲深くさせるものだからだ。意志は失敗を恐れさせ、何もないところに不安を嗅ぎとり、観念的に物事を把握しようとる、思い込みの源泉である。いずれも欲を深める志向性ゆえのことであり、リラックスさせるどころか、人を緊張させるものだ。そして本能を粉飾するので、真の欲望を隠してしまうのである。
・人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、克己や自己犠牲などの努力に向かう意志であり、それを捨て去ることによって、本能に素直な、真に本来の欲望そのものの状態で生活することができる。その達成された姿が「喪神状態」であり、それは動物のように己の本能由来の欲望に素直になった姿なのでもある。そこには心の平安(アタラクシア)があるのだ。

 意志ってさ、ビジネス系・自己啓発系の界隈で焚きつけてくるやつだ〜って考えると、なかなか根深いものがあるよね。だって、意志を持たないと成功はないし、将来もないし、夢もなくなっちゃうだろうし。でも逆を言うと、意志を持つからこそ失敗や挫折や諦観への不安も起こるんだよな。

 ──そう思うと、意志的なもののオルタナティブが気になってくるわけで。そこに本能を持ってくるってなったら、じゃあ本能って何さ?ってな感じで考えだしちゃったわけだ。

 まぁ、快楽主義のススメみたいなところもあるんだけどさ。五味康祐の『喪神』で書かれてる「本能ベース」の生き方って。でも、いわゆる “やりたいほーだい” とも違うのよね。そこんとこも読みどころのひとつかな。


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